ネットワーク的読書 理系大学院卒がおすすめの本を紹介します

本と本の意外な「つながり」ってありますよね

【時代の流れ】書評:岳飛伝 十六 戎旌の章/北方謙三

岳飛伝 十六 戎旌の章

岳飛伝 十六 戎旌の章

 

概要

 水滸伝、楊令伝に続く北方謙三の北方水滸伝第3部。その16巻です。

感想

 16巻目ということで岳飛伝も佳境に入ったのではないでしょうか。この巻は最初から最後まで戦ってばかりでした。

戦の形

 今まで、大きな戦があると物語も急速に進展していきました。戦がないところでも様々な動きがあったものです。しかし、この巻では戦が続いた割には物語に進展が少なかった印象を持ちました。

 その理由を複数の武将が語っていました。今までとは国の形が変わったために、戦の形も変わったのだと。

物流の道ができてしまえば、それでいい。つまり国が、かつての国としての力を持たなくなる。それは、ショウケンザイの考えだった。国の形骸に、かつて形骸ではなかったころの力が残っていれば、面倒なことになる。つまり、軍だ。旧宋は、ホウロウの乱のころ、実は倒れていた、と見ることもできる。しかし、強力な軍を、童貫という稀代の軍人が率いていた。それだけで、戦おうとする相手にとっては、圧倒的だったのだ。国が形骸となっても、軍が健在ならば、国としての力は持ち得る。いまの金国は、それに近いかたちになっていないか。 

 物流によって、国というシステムはどんどん形骸化します。しかし、強い軍事力を保持しているならば、その形骸もそこそこの存在感を発揮します。旧宋は腐りきっていましたが、軍事力があったので当時の梁山泊に負けませんでした。

大将を討ち取っただけで勝てるというほど、この戦はたやすいものではなくなっている。そのことを、梁山泊の指揮官ははっきりと理解して闘っていた。斜室も、そして沙ケツや阿刺の部下たちもそうだろう。残酷な戦だった。できるかぎり、兵を削り落とす。軍を軍ではなくしてしまう。そこから、別のものがはじまるのだ。史進が、コエンリョウが、自分に向かってくる。それは多分、古い戦を懐かしんでのことだ。 

 これからの戦は大将が死んだら終わりではありません。軍事力を減らさなければなりません。軍を完膚なきまでに潰す、つまり、兵力をできる限り削りあうことが今回の戦の目的なのだと武将たちは考えているのです。

 大きな戦いが起きているのにその割には物語が進展しないのは、ただただ兵力を削り落としているだけだからなのかもしれません。そこには華々しさなど欠片もありません。その中で、史進やコエンリョウやウジュは、戦術を駆使して相手の大将の首を取る往年の戦を楽しみたがっているのでしょう。僕としても、そっちのほうが面白いと思います。しかし、時代の流れは容赦がありません。

北と南

 ますます注目すべきは胡土児でしょう。あまり史実を知らないのでどうなるかまったく想像がつきません。

肉を焼く準備を、胡土児は見ていた。このあたりの香料を、胡椒と呼ぶことが多い。胡とは、中華以外の土地であり、南の香料も胡椒と言ったりするらしい。胡土児という名は、中華の外の土地の児ということなのか。ならば自分は、北辺で暮らすのが、最もふさわしいのではないか。 

 なんて意味深なセリフでしょうか。中華を一時離脱した彼が、もう一度戻ってきて「胡土児伝」が始まったりして。

 南宋は危うさを感じます。秦膾がいよいよおかしくなってきました。

戦に勝者などいないと、最初に見きわめたのは、梁山泊ではないだろうか。旧宋と戦い続けてきた。旧宋を倒しても、国らしい国を作ろうとしなかった。ある地域を、自分たちの領分のようにして、交易の手を方々にのばした。戦に勝者などいないという考えどころか、これまでの国の姿など、形骸にすぎない、という考えに至ったのではないか。動きを見ていると、これと指せる国に、大きな関心を持っているとは思えないのだ。それなら自分は、ただ形骸である国を、守ろうとしているだけなのか。なにもかも欲しい。そう思いながら、こういうことも考えてしまう。自分が、早晩死ぬと思うようになってからは、常にそうだった。 

 人間は老いには勝てませんね。これも時代の流れでしょうか。広い視野で戦況を見つめられなくなっているような感じです。 南は岳飛とシンヨウのコンビネーションにやられてしまいそうな雰囲気です。とは言っても、程雲はけっこう強い武将です。さらに石信という有力な将軍も出てきましたし、一筋縄ではいかないでしょう。

最期の百八星

 そして兵力を削りあうだけだった梁山泊vs金との戦は、最後の最後で大事件が起きました。まず、無謀な作戦を指揮した罪で3人の将校がウジュに処刑されます。衝撃だったのは、血のつながっている海陵王も容赦なく処刑されてしまったところです。直接的には書かれていませんが、ウジュがあそこまで言ったのなら、命はないでしょう。ウジュの強さを改めて垣間見た瞬間でした。容赦の欠片もありません。

 さらにその直後、史進の突撃によってウジュは死亡し、史進も瀕死の傷を負います。長年梁山泊を苦しめ続けてきたウジュのあっけない最期。そして、史進もここでお別れなのでしょうか。あの章はなんだかどちらに転ぶのかわからない書き方だと思いました。今まで、他人目線で梁山泊の戦士の死が描かれたことなどほとんどないような気がしますし、ましてや、彼は最後の百八星。こんな終わり方、アリ?というような感じです。

 だた、死に際の戦果としてはこの上ないものですよね。ウジュが死んだら金国はもうぼろぼろでしょう。死に見合うだけの活躍ではあるのですが、史進の心の内が知りたいものです。

「古い梁山泊の戦士で、残っているのは、ほんとうに、あの人だけなのだな」「そうだ、宣凱。いつ死んでもおかしくない戦を続けてきた人が、いまもまだ戦をしようとしている」「私は、しばしば考えたよ。いまの梁山泊が、あの人にどう見えているのだろうと」「見ていないようで、一番よく見ている人かもしれない。早く死んでくれよ、という思いがある。それと同じぐらいに、死なせてたまるかとも思う」「よせよ、王貴。あの人のことに、私は立ち入れない。なにか、登ることのできない山みたいなものだな」「あの人がここにいたら、私は、萎縮するだけだろうな。きわめて傲慢で、信じられないほど繊細で、そしていまも誰よりも強いのではないかな」「あの人の話はやめよう。いまにも現れそうな気がする」 

 王貴と宣凱の会話が死亡フラグになってしまったのでしょうか。こんな会話は毎度繰り返されてきたような気がしますが。もし死んでしまったとするならば、ついにひとつの時代が終わってしまった感じがしますね。

 

その他、話を覚えておくためのメモ。

  • チョウコウの陽動作戦が成功し、岳飛が程雲を奇襲。
  • 胡土児が謎の集団に襲われ、徒空に助けられる。
  • 南宋水軍200艘がゲンレイの艦隊を襲う。
  • ラシンが米を運び入れる輸送隊にまぎれて象山の造船所を焼き討ち。安否は不明。フウゲンを騙す形になる。
  • 七星鎮が石信の本隊に襲撃される。命からがら逃げてきた打狗を岳飛は従者にする。

 

 

岳飛伝シリーズ。 

 

 

オススメの本はこちらにまとめています。

A. 誰にでもおすすめできる/是非読んで欲しい作品

B. 大多数の人が面白いと思うはず/この作家さんが好きなら絶対読むべき作品 

 

更新情報はTwitterで。

【見えない戦争に気づけるか】書評:となり町戦争/三崎亜記

となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)

 

概要

 三崎亜記さんのデビュー作です。小説すばる新人賞を受賞しました。また、直木賞の候補にもなりました。となり町と戦争することになったのに、主人公には全然その様子が目に見えません。この戦争の果てに主人公は何を見るでしょうか。

おすすめポイント

 大きなストーリーの起伏はありませんが、深く考えさせられる作品です。

感想

 ある日突然、隣町との戦争に参加させられることになった主人公の北原。戦死者の報告はあるのに、その戦争は影も形も見ることができません。まったくいつも通りの日常。北原に課せられた偵察業務も、普段の街並みを見回っているにすぎません。いったい、この町で何が起きているのか。

 なにか大きな謎やトリックが仕込まれているのではないかと最初は疑って読み進めていました。「戦争」という言葉がまったく別の意味を持っている可能性を疑ったりしていました。最後まで読んでみると、そういう物語ではなかったことがわかります。この物語は素直に目に見えない戦争を描いた物語でした。

 北原の身の回りにはほとんどなにも起きません。目の前で大切な人を失ったりしません。だから北原は戦争を実感できないのです。でも、戦争は実際に起きているのです。自分とは遥か彼方にあると思っている戦争が実は身近にあったりするんだよ、と作者は伝えたいのではないかと思いました。主人公の偵察業務はまるで戦争に参加しているとは実感しがたいものでしたが、実際の戦争でも実はそういうものなのだと。関係ないと思っていることが実は戦争に加担している行為で、まわりまわって人を殺しているのかもしれないのです。 

 起伏のない、当たり障りない物語のようですが、読み終わって考えてみると裏に強いメッセージを感じる作品でした。もっと自覚的になれよと訴えかけてきます。

あはたはこの戦争の姿が見えないと言っていましたよね。もちろん見えないものを見ることはできません。しかし、感じることはできます。どうぞ、戦争の音を、光を、気配を感じ取ってください。

 遠すぎて見えない戦争が起きています。僕らはそれを直接見ることはできませんが、想像することはできます。 想像しなければなりません。

僕たちが戦争に反対できるかどうかの分岐点は、この「戦争に関する底知れない恐怖」を自分のものとして肌で知り、それを自分の言葉として語ることができるかどうかではないかと。スクリーンの向こうで起こっているのではない、現実の戦争の音を、光を、痛みを、気配を感じることができるかどうか。 

 戦争に反対できる人は、戦争を真に知っている人です。戦争の恐怖を知っている人です。だから戦争をもっと知るべきなのだと思います。

 ただ、この物語は最後の方を抽象的な言葉でぼんやりと締めるのです。だから、なんとなくぼんやりとした印象しか残りません。

考えてみれば、日常というものは、そんなものではなかろうか。僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。ただそれを、自覚しているのかどうか、それが自分の眼の前で起こっているかどうか。それだけの違いなのではなかろうか。僕はもう、自分が関わったことが戦争であろうが、なかろうが、そんなことはどうでもよくなった。たとえどんなに眼を見開いても、見えないもの。それは「なかったこと」なのだ。それは現実逃避とも、責任転嫁とも違う。僕を中心とした僕の世界の中においては、戦争は始まってもいなければ、終わってもいないのだ。 

 見えなければ「なかったこと」と言ってしまっています。それでいいのかと。わからないものはわからないじゃないかと開き直ったように感じます。せっかく面白い設定で重要な問題提起をしているのに、ちょっともったいないなと思ってしまいました。

僕はまた、変わらぬ日常へと戻っていく。もちろん、戦争の影を見ることがなかったとはいえ、この半年間の「特殊な日々」は、僕を容易に以前の変わらぬ日常へとは復帰させないかもしれない。それでも僕は、「僕の意志」として、「変わらぬ日常」を生きようと思う。誰かの死によっても変われなかった自分のままで生きようと思う。こうした、変わらぬ日常のその先にこそ、戦争は、そして人の死は、静かにその姿を現わすのだから。 

 変わらぬ日常を生きることが大事なのだと説いて終わるラスト。今までの日常をほんの少しだけでも変えようというメッセージなのかと思いきや、まったくいつも通りでいいと言っているような感じ。主張のブレを感じてしまうのは僕だけでしょうか。

 


テーマとしては伊坂幸太郎さんの「魔王」に近いのかなと思いました。自分だけが自覚できるおかしさに、声を上げることができるか否か。

 

 

オススメの本はこちらにまとめています。

A. 誰にでもおすすめできる/是非読んで欲しい作品

B. 大多数の人が面白いと思うはず/この作家さんが好きなら絶対読むべき作品 

 

更新情報はTwitterで。

【雨が呼んだ不条理】書評:龍神の雨/道尾秀介

龍神の雨 (新潮文庫)

龍神の雨 (新潮文庫)

 

概要

 大藪春彦賞を受賞した作品。2組の兄弟を主人公に据えた悲劇の物語です。

おすすめポイント

 鬱々として悲しい物語ですが、トリックが仕込まれており、その謎が明らかになる中盤以降はかなりスリリングでした。あまりにも過酷な運命を背負ってしまった兄妹の姿は訴えかけてくるものがあります。

感想

道尾さんの仕掛けた罠

 両親を亡くした2組の兄弟の物語です。片方は継父の横暴に耐えながら暮らす兄の蓮と妹の楓。もう片方は実母のようになりたいと努力する継母と暮らす兄の辰也と弟の圭介。主に蓮の視点と圭介の視点から物語が進みます。

 蓮は働かずにぐうたらと暮らす継父を憎んでいます。妹に手を出そうとしたことをきっかけに、継父を殺そうとします。この設定は貴志祐介さんの「青の炎」と似通っていたので、蓮がいかにして継父を殺し、そしてバレずに生き延びるかというクライムサスペンス的な話に進んでいくのかなと予想して読んでいました。

 しかしそれが実は間違った先入観でした。真犯人が別にいるという可能性が頭から消えてしまって、道尾さんの仕掛けた罠にまんまとハマったしまいました。

 序盤はとにかく鬱々とした展開が続くのですが、仕掛けられた謎が姿を見せる中盤はすごくスリリングで面白かったです。叙述トリックとまではいかないのですが、黒幕の姿は巧妙に隠されていて、「あっ」と思ったときにはもうネタバレが始まってしまいました。気づくのが遅すぎました。

 道尾さんは常々「文章でしかできないことを」ということを仰っています。

作家の読書道:第78回 道尾秀介さん | WEB本の雑誌

 この作品よりもそれが顕著に現れた作品はたくさんあると思いますが(向日葵の咲かない夏とか有名ですよね)、根底にあるものはやはりそれなのかなと思いました。

 辰也と圭介の実母の死の真相に関しても、父が殺した可能性や継母が殺した可能性も微妙に残す絶妙な書き方がなされているわけです。言葉の持つ魔力を最大限に活かしています。

悪運を呼び寄せたもの、遠ざけたもの

 物語中で蓮は「いったいどこが最悪なのだ」ということを度々口にします。蓮たちの運命はとにかく悪い方へ悪い方へと転がり続けるのです。ラストではさらに人を殺めてしまいますし、「継父は実は死んでいなかった」との捨てゼリフも、確かめようがないという点で最悪の捨てゼリフです。 

 一方の辰也・圭介はハッピーエンドとまではいかないものの、良い方へと転がりだして物語が終わります。ここで目を引くのが下の圭介の回想。

しばらく前、圭介はほんの束の間ーたぶん数十秒のあいだだが、兄の心境がすべて理解できたような気持ちになったことがある。テレビで「サザエさん」を見ていて、仲良し家族の笑い声が胸に迫ったときのことだ。兄は、不幸でいたいのかもしれない。自分のことを可哀相だと思う瞬間の、この甘いような、花の奥がちりちりするような感覚が、兄は好きなのかもしれない。だから万引きしてきた商品をわざとテーブルの上に置いておいたりする。里江に叱られ、自分はなんて不幸なんだろうと歯を食いしばり、またあの感覚を味わいたいと思って。

 圭介の分析では、辰也は不幸になりたがっていました。本心かどうかはわかりませんが、不幸を望んだ辰也はハッピーになり、悪運の出口を求めてもがいていた蓮たちはどん底へと落ちてしまいます。なんという不条理な世界でしょうか。でも、それが実は現実によく起きたりするんですよね。

どこかで雨が降る。そこに人がいる。傘をさすのか、濡れて歩くのか。それとも立ち止まり、首を縮めながら、雨がやむのをじっと待つのか。何が正しいかなんて誰にも判断することはできない。しかし行動の結果は思わぬかたちとなって牙を剥き、人の運命を一瞬でコントロールしようとする。ときには人生の足場を跡形もなく消し去ってしまう。それでも最初の選択は当事者の胸に押しつけられる。人は、手にした傘と空とを見比べて立ち往生するしかないのだろうか。

 この世界では、「最初の選択は当事者の胸に押し付けられる」と蓮は言います。選択の結果がどんな影響を及ぼすのかは誰にもわかりません。一瞬で今までの世界が崩れ去ってしまうかもしれません。それでも僕らは常に選択をしなければならず、そしてその責任や失敗した時の後悔は自分が被ることになるのです。 

しかし、だから何だというのだ。雨は決して人を動かしたりはしない。いくつもの場面場面で、自らの行動を決めてきたのは自分自身だった。罪を犯してしまった者が許しを請うことなど、できるはずもない。この手で他人の人生を壊してしまった自分には、もう二度と晴れた空を見上げる資格などない。この雨が降りはじめる前に戻ることができるなら、自分はどんなことでもするだろう。最後に暗い空を振り返り、蓮は思った。日々は、決して晴れた日の川面のようにきらきらと光ってはいなかった。それでも自分の人生は、小さなことで笑い、そのかわり小さなことでも泣いている、平凡で緩やかな川だった。見知らぬこんな場所に流れが行き着いてしまった理由を、蓮は無数の雨滴の先に見つけようとした。しかし、そこにはただ黒々とした闇が広がっているだけだった。いつだって、気づいたときには手遅れなのだ。

「いつだって、気づいたときには手遅れなのだ」というのは蓮が何度か心の中で思うセリフです。上の引用にも現れているように、蓮は実はすごくネガティブな性格をしているのかもしれません。物語では前を向いて頑張ろうとしている様子が描かれていますが、ところどころにすごく後ろ向きな一面がかいま見えるのです。それが悪運を呼び寄せてしまったと考えるのは、スピリチュアルすぎるでしょうか。

 

 

道尾さんの他の作品。こちらも巧妙な罠が仕掛けられていて面白かったです。 

 

叙述トリックの王道といえばこれですよね。緻密な作品でした。 

 

 

オススメの本はこちらにまとめています。

A. 誰にでもおすすめできる/是非読んで欲しい作品

B. 大多数の人が面白いと思うはず/この作家さんが好きなら絶対読むべき作品 

 

更新情報はTwitterで。

【山で繋がる警察小説】書評:マークスの山/高村薫

マークスの山(上) (講談社文庫)

マークスの山(上) (講談社文庫)

 

概要

 高村薫さんが直木賞を受賞した作品です。上川隆也さん主演で映像化もされています。主人公は警部補の合田雄一郎。彼の活躍はシリーズ化され、「照柿」や「レディ・ジョーカー」などでも描かれています。

おすすめポイント

 思いっきり無骨な警察小説です。刑事たちの手柄争いとそれに伴う葛藤を堪能できる作品です。キーワードとなる「山」を背景に、過去と現在が入り交じる重厚なミステリーです。

感想

警察小説の最高峰

 とある殺人事件を捜査することになった合田。単純な事件かと思いきや、背後にきな臭い雰囲気を嗅ぎとります。どこからか横槍が入り、思うように捜査が進展しない内に2件目の事件が起きてしまいます。

 一方で事件の犯人と思しき青年「水沢」の視点も登場しますが、殺人事件にどのように彼が関わっているのかが不明瞭。何か薄暗い事情が裏にあるのは感じますが、なかなかその正体がわかりません。

 ジリジリと、まるで高い山に登るかのように解明されていく謎。刑事たちは抜け駆けや衝突を繰り返し、徐々に真相に近づいていきます。その様子はすごく生々しくてスリリングです。

年がら年中顔を合わせ、角を突き合わせ、怒鳴り合い、悦び合い同じ成果と失意を共有してきた男らも、ときどきに生活も感情も違う他者の分厚い壁を見せる。捜査が微妙な山場を迎えているそのときに、ふいとそんな壁を見せる方が悪いか、見せられる方が悪いか、合田はちょっと考えてみたが、たぶん後者だという答えは初めから出ていたような気もした。いったん捜査にかかると、事件で頭をいっぱいにすることで逆に自分を慰め、事件が山場を迎えると、今度はまだ何かある、まだ何かあると執拗に探り続けて、自分の無為を救おうとする。そうして私生活も何もない空っぽの人生を埋めている男に、たとえば今夜は広田が「ノー」と言ってくれただけだった。 

 妻と離婚し一人刑事として生きている合田。一方で同僚は結婚している人が多く、すれ違いが起きてしまいます。一見すると無骨な物語で、ただただ謎を追いかけるミステリーに見えるのですが、内面の葛藤も鋭く浮かび上がらせています。外側と内側のバランスがお見事でした。

 文章が胸に響いてきます。言葉の重ね方、感情の表現の仕方などなど、少し読み進めづらいところもあるのですが、物語の雰囲気にぴったりです。

所轄時代から六年の付き合いになる同僚の感情も、過去の事件に引きずり回されて大揺れもいいところの自分自身の感情も、どちらもが今はただ不快で不安だった。自分の尻に火がついているときに、真っ先にやったのが、同僚一人を脅しすかして道連れにすることだったか。こうしている間にもいつ四件目の犯行に及ぶか知れないホシを逃しながら、とにかく刑事の自尊心とやらを自分に確認するのが先だったか。そうか、これが自分という人間の正体か。認めるも認めないも、合田はただ不快で不安だった。 

 真相の解明か、己の保身か。合田の刑事魂が問われます。「警察小説の最高峰」との宣伝文句がついていますが、外と内の両面から刑事のすべてを描こうとしているところに作者の気概を感じます。

なぜ山に登るか

 物語には終始「山」が関わってきます。おそらく高村さんも登山の経験があるのではないかと思います。登山のルートや装備品に関する詳細な記述がたびたび出てくるだけではなくて、登山の精神的な部分に深く切り込んでいて、これは実際に体験しないと書けないよなあと思ったからです。 

山に登ると、日常の雑多な思いは面白いほど薄れ落ちていき、代わりに仕事や生活や言葉の 覆いをはぎ取られた自分の、生命だけの姿が現れ出る。凝縮され、圧延され、抽出され、削ぎ落とされていくそれは、自分でも驚くような異様な姿をしているのが常だったが、その体感は一言でいえばこの世のものでない覚醒と麻痺だった。登り続けるうちに鼓膜が耳鳴りを発し、皮膚は寒さを感じなくなり、筋肉や心臓の苦痛が陶酔になる。その麻痺が、ほとんど死に向かう爆発や開花のようになる。ザイル一本で天空にぶらさがった身体に満ちる歓喜は、生命の最期を待ち望む一瞬に近く、底雪崩の轟音に耳をすます身体の鈍麻は、おそらく死そのものの鈍麻に近かった。その異様な一刻一刻が、或る強烈な心地よさと解放感に変わる瞬間があった。合田はある時期、そうして自分や加納がなぜ、より高くより険しい過激な登山を繰り返すのかを知ったが、自己破壊の、あのおぞましい衝動を止めることが出来るぐらいなら、初めから山には登っていなかった。

 他人から聞いただけでこんなにかっこ良い文章が書けるものでしょうか。僕はたぶん書けませんね。

 「そこに山があるから」という有名なセリフがありますが、合田はそれよりも具体的に登山の楽しみを語っています。命を削るようなスリルを楽しむために登山を繰り返していたと。登山をまったくしたことがない僕には狂気だとしか思えません。

お互いにさまざまな感情や生活や仕事の問題を抱えながら、話し合う言葉を持たず、自分の向かうべき方向を知らず、何もかも叩き潰すようにしてひたすら登り続けたのが山だったのだ。しかしまた、ほんとうはどうだったのだろうかと合田は思った。そうしてむき出しの生死を共有することで、ほんとうはどれほど強い感情がそこに生まれていたか。身体の麻痺と生命の興奮の刹那に、どれほど倒錯した執着が生まれていたか、と。浅野剛が慎重に言葉を選んで遺書に記したのは恐怖と麻痺だけだったが、野村久志を埋めた五人の間に、なにがしかの至福感はなかったと言えるか。十三年経って過去を振り返る浅野の言葉のすみずみに、おぞましい郷愁はなかったと言えるか。山とは何だろうー。  

 「むき出しの生死を共有することで」生まれる強い感情があると合田は自分の経験から予測し、山に人を埋めた5人の狂気に思いを馳せます。「なにがしかの至福感」とありますが、頂上に到達した達成感を分かち合うように、殺人をやってのけた仲間たちとの思い出に何らかのポジティブな感情、「おぞましい郷愁」が生まれていたのではないかと、合田はそのように想像したわけです。僕には全然理解できたものではないのですが、心の奥に潜む感情をここまで緻密に分析できるものかと、そしてそれを書こうと思うのかと驚愕した次第です。

 ラストシーンは美しい富士山を拝んでの幕ぎれとなります。なぜ水沢は北岳に登ったのか、イマイチ不明瞭だったその動機は、最後に鮮やかに解明されます。真知子が見たいと言っていた富士山が見えるから。鳥肌が立ちました。(まあ明言されたわけではないんですけどね。)

 ここで合田が山に登る理由との対比構造が見えるわけです。誰かのために山に登った水沢と、スリルを求めて山に登っていた合田。合田自身もきっと思うところがあったでしょう。

 また、水沢は外から見ればどうしようもない凶悪犯なわけですが、彼の内面を理解し、優しく連れ添った真知子に、もう少し救いが訪れてほしかったなと思いました。

 

下巻はこちら

マークスの山(下) (講談社文庫)

マークスの山(下) (講談社文庫)

 

 

その他、僕が読んだ警察小説

横山秀夫さんの警察小説はいくつか読みましたが、どれも面白くて大好きです。 

 

佐々木譲さんの書いた田舎の警官が奮闘する物語。

 

 雫井脩介さんが書いた奇抜な捜査が行われる警察小説。

 

 

オススメの本はこちらにまとめています。

A. 誰にでもおすすめできる/是非読んで欲しい作品

B. 大多数の人が面白いと思うはず/この作家さんが好きなら絶対読むべき作品 

 

更新情報はTwitterで。

【抑圧と解放の王道ファンタジー】書評:獣の奏者 1闘蛇編, 2王獣編/上橋菜穂子

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

 

概要

 獣と密接なかかわりを持つ異世界を舞台にしたファンタジー長編です。NHK系列でアニメ化されて話題になりました。全4巻の作品ですが、2巻で一旦物語が終結するので1巻と2巻を合わせた感想を書きます。 

おすすめポイント

 心躍る王道のファンタジーにして、大人のダークな部分がにじみ出る重厚的なお話です。夢中になって読み進め、最後には深い感動を味わえる作品です。

感想

清濁併せ呑む主人公エリンの人柄

 主人公のエリンが、母親と悲劇の死別をするところからスタートするこの物語。心に深い傷を負ったエリンは、常に心に暗いものを抱えていて、それが見え隠れします。こういう単純ではないキャラ設定は個人的にすごく好きです。

 交わってはならないとの戒律を破って生まれた混血のエリン。定められたルールを守らず獣と心を通わせるエリン。彼女は自分が世の中の異端であることを認識しながら、しかし自分の生き方を貫こうとします。鋼の心を持っているわけではないので常に葛藤を抱えているのですが、それでも己の信念を曲げずに力強く生きるその姿に心を打たれます。

 エリンの成長に驚かされることがたびたびあるのです。状況も分からず母親の元へ向かってしまった幼き日のエリンは、ジョウンの下で育てられた時期、そして王獣舎での生活を経て、たくましく成長していきます。特に王獣舎を出てから降りかかる苦難と、それに伴う精神的な成熟は目を見張るものがあります。

人というものが、こんなふうに物事を考えて、進んでいく生き物であるのなら、そのまま行ってしまえばいい。人という生き物がころしあいをしながら均衡を保つ獣であるのなら、わたしが命を捨てて〈操者ノ技〉を封印しても、きっと、いつかまた同じことが起きる。そうやって滅びるのなら、滅びてしまえばいい・・・ 

 人間の愚かさを痛感し、もう滅びてしまえばいいとなげやりになるエリン。いつからこんなに大人になったんだっけと目を丸くしてしまいます。今まで純粋に育ってきたと思っていたエリンは、僕が気づかぬ間に現実をすっかり認識していました。

 そのことを僕は寂しく思いました。人間界の下らない黒さに触れないでいてほしかった、と。でも、現実は現実であり、僕らも再確認することになるのです。ああ。この下らなさが人間なんだと。

抑圧と解放、そして破壊

 上で少し触れたように、ただのファンタジーではないのです。獣と人間が心を通わせることが1つのテーマになっていますが、しかしそれに終止しているわけではありません。獣と人間の関係を通じて、人間と人間の関係性を考えざるをえないのです。

音無し笛で王獣や闘蛇を硬直させるように、あなた方は、罪という言葉で人の心を硬直させている。そんなやり方は、吐き気がするくらい、嫌いです

 とてつもなく強い力を持った王獣と闘蛇は、音無し笛という笛で気絶させることができます。それが彼らを手懐ける唯一の手段だとルールで決められていますが、エリンはこれを嫌います。獣達の野生の生態を壊す力を持っていることを観察によって見抜くからです。

 音無し笛を介した獣と人の関係は、抑止力を手元に控えた人間同士の関係に還元できます。直接的な武力が抑止力になったり、「罪」のような言葉で相手を縛ることも抑止力の一種だと考えられます。何かに従うこと、何かを従わせること、上下関係、支配関係、枠にはめ込むこと、鎖に繋ぐこと、そんなことが次々に頭をよぎります。

 この物語では何かに縛られている存在がたくさん登場します。人に操られる王獣や闘蛇もそうですし、城に縛り付けられている真王も、真王の盾として生きることを強いられるセザルもそう。何かに支配され、抑圧されています。

 そしてそれは情報を制限されている場合も同じ。

 一生を王獣の保護に捧げている自分たちにさえ、知ることを許されぬ、なにかがある。それが、エサルは腹立たしかった。人を無知なままにして、まにかを守ろうとする姿勢が、エサルは吐き気がするほどに嫌いだ。判断は、事実を知ったあとにするものだ。事実を知らせずにおくということは、判断をさせぬということである。 

 無知なままにしておくことでもやはり、人を縛ることができるのです。

 上で挙げた形のある抑圧や形のない抑圧もすべて、エリンの行動によって打ち払われていきます。最初は小さな小さな存在にすぎなかったエリンは、国の根幹を揺るがす力を手に入れ、すべてを解放します。

 物語は非常に綺麗にハッピーエンドを迎えます。対立構造によって作られた憎悪の感情は残るかもしれませんが、あらかたの抑圧はすべて解放されて、ゼロからのスタートになってしまう。その破壊の過程がこの物語だったといってもいいと思います。

 エリンの旅路は決して平坦ではありませんでした。苦難の連続でした。ラストで聞けるエリンの本音は、彼女のここまでの努力を全て物語る最高に美しいセリフです。感動しました。

(ー知りたくて、知りたくて・・・)エリンは、心の中で、リランに言った。おまえの思いを知りたくて、人と獣の間に狭間にある深い淵の縁に立ち、竪琴の弦を一本一本はじいて音を確かめるように、おまえに語りかけてきた。おまえもまた、竪琴の弦を一本一本はじくようにして、わたしに語りかけていた。深い淵をはさみ、わからぬ互いの心を探りながら。ときにはくいちがう木霊のように、不協和音を奏でながら。それでも、ずっと奏で合ってきた音は、こんなふうに、思いがけぬときに、思いがけぬ調べを聞かせてくれる。おまえにもらった命が続くかぎり、わたしは深い淵の岸辺に立って、竪琴を奏でつづけよう。天と地に満ちる獣に向かって、一本一本弦をはじき、語りかけていこう。未知の調べを、耳にするために。

 深い断絶が横たわる関係も、両者が諦めず歩み寄る努力を続けて入れば、いつかきっと分かり合える瞬間がある、そんなメッセージを受け取りました。誰でも楽しめて、大人には大人なりの気付きがある素晴らしい物語でした。Aランクに入れます。

 3巻と4巻も読み次第感想を書きたいと思います。

 

2巻はこれです。

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

 

 

 

 獣の奏者にハマったひとは是非ブレイブストーリーも読んでみてください。こちらも大人が十分に楽しめる内容です。 

 

 

 

オススメの本はこちらにまとめています。

A. 誰にでもおすすめできる/是非読んで欲しい作品

B. 大多数の人が面白いと思うはず/この作家さんが好きなら絶対読むべき作品 

 

更新情報はTwitterで。

【選んで決める難しさ】書評:薄闇シルエット/角田光代

薄闇シルエット (角川文庫)

薄闇シルエット (角川文庫)

 

概要

 主人公ハナ、37歳。古着屋の共同経営者。なんとなく付き合っていた恋人から受けたプロポーズをなんとなく断ったところから始まる日常を、角田さんの鋭い目線で切り取った長編小説です。

おすすめポイント

 「結婚できない女」というものをひとつのテーマに据えている感じですが、それだけにはとどまらない懐の深い作品でした。変わりたい、でも変わりたくない。その狭間で揺れる心の機微を巧みに描き出した作品でした。

感想

 主人公のハナはとにかく決められない人間です。そのくせ嫌なことには不満を並べ、自分から動こうとしません。タケダという恋人から受けたプロポーズを断ったのも、仕事と結婚に揺れているようで、単にやりたいことが見つけられない人間なんだなと後々わかってきます。やりたいことが明確ではないから、自分で自分がどうしたいのか、何が不満なのかわからない。したくないことでしか構成されない人間です。

な、気づいた?あんたやおれの話って、したくないことでしか構成されていないんだよ。中古のブランド品は扱いたくない、消費社会に流されたくない、どこかに属して盲目的に服従したくない。したくないことを数え上げることで、十年前は前に進むことができたけど、今はもうできないとおれ思うんだ。したくないって言い続けてたら、そこにいるだけ。その場で駄々こね続けるだけ。 

 しかしハナに対して僕はイライラすることはなく、むしろ共感さえ覚えてしまいます。おそらく多くの方がそうなのではないかと思いまし、上の引用が心にぐさっと刺さるのは僕だけではないはずです。やりたいことが100パーセント明確になっている人なんてきっとこの世にはほとんどいなくて、動きたいのに動けない自分に苛立ちを感じなら日々生きているのではないでしょうか。そんな自分の中の怠惰な部分がハナにオーバーラップします。

 結婚するつもりなどないのに「退屈だから」という理由で恋愛に手を出すが上手くいかない。母が亡くなり、共同経営者のチサトが結婚する。母の遺品整理から着想を得た新しい企画に夢中になるも、圧倒的な才能を持つクリエイターに手柄を持っていかれてしまう。いろいろなものを掴んでは失くして、理解しては取り返しのつかなさに愕然とする。ハナの不器用な生き方は、やはり自分の中の一部に重なって、深い共感を呼びます。

私たちはかつていっしょに歩いていた。ほしいもの、求めるもの、ずっと先にあるものばかり目で追って、理想論ばかりをくりかえして歩いていた。それなのに、いつのまにか、みんな自分のほしいものを手に入れるすべを知っている。着々と手に入れている。母が、長い年月をかけてあの場所を作ったように、みんなそういう場所を手に入れつつあるのだ。チサトも、キリエも、キリエのまわりの女たちも、ナエも、タケダくんも、タケダくんの妻になった人も、きんちゃんも、私以外のだれも彼もが。気に入った家具で満たすために、引っ越して二ヶ月たつ私の部屋は、今も段ボール箱だらけの仮住まいだった。その部屋は私だった。気に入ったものが何ひとつ見つけられない。間に合わせのものすら選べない何もない部屋。 

 終盤、ハナは自分の人生を思い返し、上のような感想を抱きます。気に入ったものだけを置こうと決意するも、気に入るものがそもそも見つからないので部屋ががらんどうになってしまっている。間に合わせのものすら買えない。それはひどく寂しいことですが、言いたいことはありありと伝わってきます。

 自分の人生において、「これだ!」と決断できることがどれぐらいあるでしょうか。僕は多くないです。なんとなく良さげなもで済ませているものもあれば、ハナのように迷いいつまでも決められずにいるものもあります。

私はしげしげとそのカップを眺めた。いかにもちゃちなこのカップを、毎日眺め、毎日手にしていたら、いつか、いとおしく思うことができるだろうか。自分にとってたいせつなものに思えてくるんだろうか。これがほしい、というよりむしろ、私はそんなことを知りたかった。 

 大きなきっかけがあるわけではなく、ハナは自分らしく一歩一歩進んでいくことを誓って物語は終了します。その終わり方にはありきたりさを感じますが、ハナの心境がどのタイミングでどのように変わっていったかを追うのはなかなか難しいなと思いました。

そうだ、空っぽの部屋を嘆くことなんかない。だってこれから、いくらでもものを満たしていける。百円だろうが、百万円だろうが、だれの目も気にせずほしいものを手に入れればいい。私はふと立ち止まり、広げたてのひらに視線を落とす。あの部屋のように、何ひとつつかんでいないからっぽのてのひらが、淡い闇に頼りなく浮かび上がっている。なんにもつかみとっていない、なんにも持っていないーそらはつまり、これからなんでもつかめるということだ。間違えたら手放して、また何かつかんで、それをくりかえして、私はこれを持っていると言えるものが、たったひとつでも見つかればいいじゃないかそれがたとえ六十歳のときだって、いいじゃないか。

 ここまでの優柔不断さを見ているとハナはまた再び迷うのではないかと思います。でも迷うたびにこうやって答えを確認して、ふらふらしながらでもいいから前に進んでいけばいいのかなと思います。迷いながらでもいいのだということが、僕にとっては希望に見えます。

 

 

 

 角田光代さんが直木賞をとった作品。過去と現在を行き来して人間関係の難しさを紡ぎ出します。

 

こちらも角田さんの作品。誘拐した子どもを育てた女と、育てられた子どもの一生を描く物語。

 

「選択」というところでこちらも。究極の選択を迫られる夫婦の物語。

 

 

オススメの本はこちらにまとめています。

A. 誰にでもおすすめできる/是非読んで欲しい作品

B. 大多数の人が面白いと思うはず/この作家さんが好きなら絶対読むべき作品 

 

更新情報はTwitterで。

【新興国で勝てる決定力】サムスンの決定はなぜ世界一速いのか/吉川良三

サムスンの決定はなぜ世界一速いのか (角川oneテーマ21)

サムスンの決定はなぜ世界一速いのか (角川oneテーマ21)

 

概要

 著者の吉川さんはサムスンに10年に渡って勤め、再生に貢献した人物です。サムスンの躍進の秘密に迫る一冊です。

おすすめポイント

 グローバルな市場で何が起きているかがわかりやすく書かれており、国内とは違った環境下で勝つためには何が必要かということについてヒントを得られる内容です。お説教のような部分もありますが、参考になることもあると思います。

感想

グローバル化と判断速度

 グローバル化が進んでいることはすべてのビジネスパーソンが念頭に置いているでしょう。しかし吉川さんは、グローバル化が進むとはどういうことなのかを真に理解している人が少ないと主張します。

これまで日本の企業は、国内の企業同士で、前回は勝ったけれども今回は負けた、という感覚のリーグ戦を続けてきたともいえますが、現在は、世界中の企業を相手にした「トーナメント戦」に舞台が移っています。 

 吉川さんは、リーグ戦とトーナメント線になぞらえてグローバル市場の戦いを説明します。今まで新興国は人件費の安い「工場」として捉えられる立場にありました。しかし工場ではなく「市場」としての存在意義がどんどん大きくなってきているそうです。そんな中で重要なのが、経済の発展が進む購買意欲旺盛な新興国の人たちに、いかにして自社のブランドを認知してもらうかということです。

こうした状況にあるからこそ、従来以上に「判断速度」が問われるようになりました。新興国でヒットする製品を世界中のどの企業よりも早く提示できるかどうかが重大な鍵を握るようになったためです。他のメーカーに先駆けてヒット商品を世に送り出すことができれば、その製品をつくったメーカーとして、"その国のブランド"になることもできます。サムスンはまさにそれに成功しました。 

 つまり、「家電と言ったらサムスン」という認識を広めることこそが大きなシェア獲得につながります。大多数の人が家電ブランドとして認識してくれた結果、たくさんの人がサムスンの家電を買います。新興国には他のブランドがまだあまり輸入されていないので、勝者がすべてを持ち去ることも不可能ではありません。リーグ戦ではなく、トーナメント戦だとした理由はこの辺にあります。

 新興国の市場で勝つためには判断速度を上げることが重要だと吉川さんは書いています。おちおちしていると他のメーカーが乗り込んでくるからです。タイトルもサムスンの決定が非常に早いという趣旨にしてあります。

 しかし最重要であるはずの判断速度に関する情報は個人的にちょっと物足りなかったかなと思いました。一応、社内システムを一から作り直し、ITによって「見える化」を進めたことが成果につながったと書かれています。じゃあ、サムスンの強さはそのシステムだけってこと?という感じで少しインパクトが弱かったです。企業秘密にしたい部分もあるのでしょうかね。

ニーズへの対応

 新興国の市場を調査するために、その国に溶け込み、その国の人たちの隠れたニーズを掘り起こす専門の人材を育てているという解説もありました。これは非常に面白い取り組みだなと思いました。まるでスパイです。日本にいる僕らがアフリカの人たちが欲している商品なんてわかるわけありません。その国に住んでいるからこそ分かることがたくさんあるのでしょう。これは素晴らしい戦略だなと思いました。いくら技術力が優れていても、その国で不必要な機能ならば無用の長物です。グローバル化にうまく対応しているなと感心しました。

 もうひとつ、日本製品(主に電化製品)は不要な機能がごちゃごちゃとたくさんくっついているというのはいつも批判の対象になります。吉川さんもそれをかなり強い口調で批判されていました。その弊害は、商品を企画するときのコスト計算に現れてくるそうです。

日本の製品であれば通常、製品の価格は、それをつくるために必要となったコストを計算し、製造原価や確保したい利益分を加算して決められます。いわば「足し算方式」ですが、サムスンはまったく逆です。サムスンでは、市場ごとに消費者の経済力などを調査していき、売れるために適当と考えられる価格をはじめに設定します。そして、その価格にするために削減を許されるコストを算出して製品開発を進めていく「引き算方式」になっています。 

 これは目から鱗でした。僕もこの引用文中の「日本の製品」のコストの決め方が普通だと思っていたのですが、それじゃあ競争力は得られないわけです。商品が売られている場所をまったくイメージできていないですものね。

 日本人と韓国人の性格の違いなども書かれていましたが、僕らは僕らが生まれ持った長所を活かしていくしかないですからね。その辺はあまり参考にはならないかなと思いました。サムスンのやり方を知ると、日本の電機メーカーが不振なのもうなずけますね。こんなにやり方が違っていて、しかもサムスンの方がグローバル市場に対応できているわけですから。学ぶべきところは真摯に学ばなければならないなと思います。

 

 

 

最近読んで面白かったビジネス関連の新書。 

デフレの根本原因とその対策を探る一冊。

 

シャネルの創業者がいかにしてファッション業界を変えたかを解説する一冊。

 

 

更新情報はTwitterで。