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【過去を受け入れ今を見つめる】書評:きいろいゾウ/西加奈子

きいろいゾウ (小学館文庫)

きいろいゾウ (小学館文庫)

 

概要

 田舎に移住してきた若い夫婦の物語。夫の名は武辜歩で「ムコさん」、妻の名は妻利愛子で「ツマ」と呼び合っています。序盤は非常にほのぼのとした物語ですが、後半ではその生活の奥に隠れていた過去が呼び起こされます。

おすすめポイント

 西加奈子さんの本は初めてでした。今まで目にしたことのないタイプの、軽やかで詩的な文章は読んでいて非常に心地よかったです。主人公たちのような、ほのぼのと暮らす夫婦、すごくいいなぁと思いました。その一方で、誰しもがなかなか打ち明けられない秘密を抱えて生きているのだとも思わされます。それを乗り越えた二人がたどり着く結論は、やっぱり暖かいものでした。

感想

 夫のムコさんは東京で経験した過去の出来事を胸に抱えて生きています。しかし序盤では表面化しません。単純に田舎に移住するっていいなぁと思いながら読んでいました。

『東京から逃げてきたようにも思うし、東京を捨ててきたようにも思う。何せ心が平らになっている。雨が降ることや、トマトがなることにとてつもなく大きな意味があって、だから僕が東京に対して思っているセンチメンタルな気持ちや、残してきた思い出がとても瑣末なことに思える。誰か全く違うほかの人の出来事のようだ。』

 この言葉はかなり序盤の言葉です。残してきた思い出はとても瑣末なことだと言っていますね。

 中盤では、夢に敗れた漫才コンビ「つよしよわし」と、不登校になってしまって田舎に来ている「大地くん」が登場します。恥ずかしいことから逃げる大地君が、恥ずかしいことを受け入れていく様子。中盤はそんな出来事の中で進んでいきます。

 そして終盤。文章のタッチは相変わらず軽やかなのですが、その中にも重苦しさを含んだ展開になってきます。ムコさんが東京に置いて来た過去と向き合う時がきます。それを敏感に察知して、ツマとの関係も微妙になってきます。

『でもやはり、ツマが日記を読んでいたことは、もうひとりの僕らの、とらえようのない苦しみや、寂しさや、居場所なさや、悲しさを、思わずにはいられない出来事なのです。僕らはお互いを大切に思うあまり、そういうことに確実に目をそむけていたような気がします。ツマがどこかに行ってしまうという恐怖を、僕は照りつけている太陽や、庭を彩る木々でもって曖昧にしてしまっていたし、泣き出しそうな気持ちを、アレチさんやコソクを笑うことで、心のどこかへ葬り去っていたような気がします。』

 お互いを大切に思うあまり、目を背けていたと感じるムコさん。そこに手を触れると、何かが壊れてしまいそうな関係。なんとなくわかります。

『いろんな人に気を使ってもらって、それでも、ふてくされて、私は何なのだろう。ムコさんが私を見てくれないからといって、それが何なのだ。でも、そこまで考えて、私はため息をつく。自分の世界が、いかにムコさん中心で回っていたのかを思い知らされて、また泣きそうになる。行かないで。ムコさんに言いたいことは、この一言だけだった。行かないで。こんな簡単な一言を、私はムコさんに言うことが出来なかった。』

 自分を見てほしいと思う寂しさ。それを実感して初めて、ムコさんが大きな存在だったことを知るツマ。たった一言自分の気持ちさえも伝えられない。想像しただけで悲しいです。

 そんな関係を見つめなおすキーワードは、ムコさんが偶然手に入れた本の栞に書かれていたこの言葉です。

『わたしは眠ります。 それがそこにあることを、知っているから。 わたしは、安心して眠ります。 それがそこにあることを、知っていたから。』

 ムコさんの心を捉えたままの女性。その女性と夫の関係は、あまりに特殊でした。そこにあるのは、夫の愛だけ。何もかも壊れてしまったその関係が、また動き出すとき、ムコさんも大事なものに気づくのです。

『僕は小説家になろうと思い、文字を書き、言葉を連ねました。それは、まぎれもなく僕の人生です。僕のものだ。僕は、人生というものがただそこにあるものなのだと知った。僕を翻弄したり、つき離したり、呼び戻したり、また見放したりするものではない。それは目を開けてもつむっても、ただそこに横たわっているだけのものなんだ。変わらず、裏切らず、おもねることなく。そしてそれはそこにあるだけで、それだけで、安心して眠るに値するものだと、目覚める理由があるものなのだと知ったのです。』

 つまり、栞の言葉の「それ」とはムコさんの解釈では人生でした。人生は誰のものでもない、自分のものです。人生が続いているというそれだけで、今日も安心して眠り、明日の朝目覚める理由になるというわけです。

『ツマを、愛しているということ。今僕を動かし、慰め、戒め、休ませ、そしてそこにい続けさせていること。それは、ツマを愛しているということだった。僕の世界はツマその人を中心に回っていて、そしてそれは揺らぐことがなかった。そうだ、揺るぎのない世界だった。それだけで心底安心して、眠り続けることがてきるほどの。それでもそれをとてもあやうい何かだと思い、消えてしまう可能性に怯え、恐ろしい想像に蓋をしていた。そうではなかった。ツマがそこにいないことに怯えるのではなく、ツマがそこにいること、人生のように、日常のように、そこにただいてくれるだけで、安心して眠りにつけるのだということ、堂々と、幸せだと笑っていられるということ。どうしてそんな簡単な、だけど途方もなく尊いことに、気づけなかったのか。』

 この言葉。「それ」が人生であると気付き、さらに人生は「ツマ」そのものだと悟る。ツマが居てくれるそれだけで幸せ。ありきたりかもしれませんが。過去にどんなことがあったとしても、今大切にしたい人と真摯に向かい合うこと。それは一見簡単なようで、ものすごく難しいんだなぁなんてことを考えました。