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【人は何を守るべきか】書評:半落ち/横山秀夫

半落ち (講談社文庫)

半落ち (講談社文庫)

 

概要

 「現職の警察官、梶総一郎が自分の妻を殺害した」という事件を巡るお話。彼は何故か事件後の2日間に何をしていたかを頑なに黙秘します。警察の妻殺しの衝撃に揺れる組織と、それに翻弄される警察官・検察官・記者・弁護士・裁判官の物語を通して、梶が心に抱えたまま離さない真実を追う物語です。

おすすめポイント

 記者や裁判官などの視点からも描かれていますが、横山さんの警察小説のエキスがにじみ出る一冊です。梶から真実を聞き出そうとする者は皆、自分の正義を貫くのか、組織の圧力に屈するのかの選択に迫られます。ラストでようやく明かされる梶の空白の2日間の真相には深く考えさせられました。

感想

 前半は、組織に絡めとられて自分の正義を貫けない男たちのもどかしさが描かれていました。自分の生活と、自分の使命と、どちらを優先するのか。板挟みになって苦しむ様子は、無念だろうなと胸に迫るものがありました。

 様々な立場の人間から、梶の様子が描かれます。彼がなぜ真相を語らないのか。どんどん謎が気になってきます。検察官の佐瀬が梶に抱いた想いは次のようなものでした。

『「無私の顔」―青ざめた梶の顔はそうだった。特捜部時代、嫌というほど対峙してきた顔だ。自分かわいさの「守りの顔」より、よほど手強い。我が身を捨ててでも、大切な何かを守り通そうとしている顔。誰かを庇うと固く心に誓った顔・・・。』

 ただただ自分の保身だけを考えている人間よりも、誰かを庇おうとする人間の強さを佐瀬は知っているのわけです。なるほどなぁと思いました。

 梶の弁護を担当することになった弁護士の植村は、梶にこう問いかけられます。

『「植村さん、あなたには守りたい人がいませんか」 刹那、頭が真っ白になった。 誰の顔も名も浮かばず、植村は狼狽した。』

 誰かを守ろうとするとき、人は本当に恐れを捨てられるのですね。逆に、いくら満ち足りた生活をしていても、守りたい人がいないと、案外もろく崩れてしまう。家族を失った梶はいったい、誰を守りたいのか。得られたヒントは「歌舞伎町に行った」ということだけ。全然答えが見えてきません。

 裁判官の藤林の章では、他の登場人物が梶の裁判に集まります。

『核心へ切り込んだ、その時だった。 藤林は幾つもの強い視線を感じた。 佐瀬がこっちを見ていた。植村も。そして、傍聴席の志木も。 同じ質の視線だった。脅しではない。懇願でもなかった。ならばいったい何だ? 藤林は息を呑んだ。 当てはまる言葉が脳を突き上げたのだ。見守っている―。 そうなのだ。佐瀬も植村も志木も。敵も味方もなく、各々が立場を超えて梶を静かに見守っている。』

 組織にからめ捕られ、梶の心の内を探る機会を失ってしまった人間は、梶を見守るしかないのです。梶は自宅に「人間五十年」と自筆した書を飾っています。梶は自殺するつもりであり、登場人物たちはそれを知っている。だから梶の物語をどうしても知りたい。

 彼は結局、真実を語らぬまま刑務所に送られます。

『事件というものは、被疑者がそれらしい自白をして書類が整えば、警察も検察も裁判所もフリーパスで通過してしまう。まるでベルトコンベアーのようなものです。被疑者の内面がまったく見えなくてもそうなるということが恐ろしい。梶がその見本です。彼はいまだに半落ちのままだ。誰も何もわからずに、とうとう刑務所まで来てしまった。』

 すべてを自白した状態を指す「完落ち」には至らない梶。その動機は最後の最後でようやく解き明かされます。彼は、骨髄のドナーとして人を救いたかった。そして骨髄ドナーは50歳までしか登録できない(現在は55歳のようです)。だから、51歳になるまでは、生きようとした。

『それは、死の淵に立っていた梶が下した凄絶なる決断だった。 もう一人救いたい。 元気に働く池上の姿を目の当たりにして、梶はそう渇望したのだ。自分は生きていてはいけない人間だ。心はとっくに死線を越えていた。だが、体はどうだ。心とは無関係に生き続けている。その体には価値がある。人に命を吹き込むことができるのだ。昨日も今日も、骨髄の適合者が現れずに子供たちが死んでいっている。ならば生きよう。生き恥を晒そう。登録が取り消される51歳の誕生日まで。 だから、自殺ではなく、自首する道を選んだ。汚辱に塗れることを覚悟して。人として、警察官として、尊厳と誇りを引き裂かれることを覚悟して。』

 この展開は予想できませんでしたが、ある意味「納得できる」真実でした。自分がここまで堕ちてなお、生きようとしていたのはなぜか。それは他の未来ある若者を救える可能性があったからなんですね。いろいろなものを失い、それでも命を繋ごうとするその覚悟。すごく立派な覚悟です。どうか、自殺などせず、胸を張って生き続けてほしいと願わずにはいられませんでした。