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【「場」の時代がやってくる】書評:レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる/佐々木俊尚

概要

 世界を統治するシステムが変わり始めていると筆者は言います。これからは〈場〉が僕たちを支配する、レイヤー化された世界が到来するそうです。中世の帝国の時代、近代の国民国家の時代の移り変わりを振り返りながら、なぜ次の時代は〈場〉なのかが説明されています。 

おすすめポイント

 個人的にレイヤーの概念は実感がすでにあって、そこまで真新しいものではないと感じました。むしろ、長い歴史を振り返った時、いまの国民国家のシステムは偶然出来上がったものであって、完璧なシステムではないのだなぁと知れたことが大きな収穫でした。

感想

歴史を振り返って

 世界を統治するシステムを論ずるに当たって、3つの時代に分けて順に紹介されています。中世の帝国の時代、近代の国民国家の時代、そしてこれから到来するレイヤーの時代です。ここで、キーワードとして用いられているのが「ウチとソト」の概念です。

 帝国の時代には「国民」という考え方がありませんでした。いくつかの民族が巨大な帝国に支配されていましたが、帝国の一員であるという感覚はなかったそうです。「ウチとソト」を分ける境界の役目を果たしていたのは、ローマ帝国であれば言語、イスラム帝国であれば宗教でした。言語や宗教は不変のものではありません。変えることができます。つまりこれらの境界は今よりも曖昧で、近代の国民国家よりも緩い繋がりの中で人々は支配されていました。

『帝国は決して国民国家より劣っていたとは言えません。帝国というのは、何がウチソトを分ける境界になるのかというその考え方が、いまの国民国家と違っていただけとも言えるからです。だから中世の帝国は邪悪なシステムではありませんでした。』

 帝国と聞くと「悪」のイメージを持っていたのですが、全然そんなことはなかったようです。中世においては、このシステムが非常にマッチしていたのでしょう。だからあれだけ巨大な国家が、何世紀にも渡って続いていたのだと思います。

 一方でヨーロッパを発祥とする国民国家は、文字通り国民であるか否かで「ウチとソト」が厳密に分けられています。イギリスでは、イギリス人はウチですがフランス人はソトです。なぜ国民であることが意識されるようになったのか。それは、歴史の移り変わりが生んだものでした。国王が領地を分けあっていた時代、教会が力を持った時代などを経て、必然的に生まれたものでした。それが、大戦と植民地支配を経てアジアやアフリカにも広がり、現在のような世界の形になったのです。詳しくは本書に譲りますが、現在の世界がどのように形作られてきたかが、今までにない視点で解説されていました。世界史を受験で使わなかった僕としては、非常に興味深かったです。

インターネットが作る世界

 さて。ではこれからはどうなるのか。鍵を握るのはインターネットの発展による第三の産業革命です。

『「第三の産業革命」は先進国のウチとソトをなくし、先進国も新興国も含めてひとつの大きな〈場〉をつくり、ウチソトの境界を消滅させようとしています。しかしそれは、いままでウチソトの境界に守られて豊かな生活をしてきた先進国の人たちにとっては、恐怖でしかないのです。だから彼らは、もうすでになくなってしまった境界がまだあると思い込み、「ここに境界があるんだ!」と叫び、ソトの世界をにらみつけています。』 

 今までは機能を果たしていた国民国家は、「ウチとソト」を明確に分け、それが効果を発揮していました。「ソト」である植民地を支配して利益を貪り、「ウチ」に住む人々の生活は発展してきました。今もその名残は多々あると思います。でも、それはいずれインターネットの力で、「ウチとソト」を隔てている境界はなくなっていくと著者は言います。その変化は大きなものになるでしょう。対応出来ない人々はさぞ怖いのではないでしょうか。

 インターネットは「場」を創り、世界を支配していくと著者は言います。

『インターネットはウチソトの壁を壊し、ただひとつの〈場〉のようなものをつくり、その〈場〉はインターネットに接続している限りすべての人々に開放されていて、無限に広がっていきます。』

 いくつか例が挙げられています。例えばアップルのアイチューンズは音楽業界を変えました。今まではレコード会社が音楽業界の中心に存在し、楽曲制作から広報、販売まで全てに関わっていました。しかしアイチューンズによって音楽を購入できるシステムが整うと、ミュージシャンはレコード会社を通さずとも音楽を売ることができます。買う側も、世界中の音楽を瞬時に手に入れることができるようになりました。アイチューンズは上から音楽業界を支配しているわけではなくて、音楽の売買が行われる「場」になっているのです。

 「場」が支配する世界の中で個人の生き方も変わってきます。

『何かの「ウチ」であることによって規定される個人から、さまざまなレイヤーの重なりによってあいまいに規定される個人へ。〈場〉の世界システムは、「どこどこのだれだれである」という固定化したアイデンティティの枠に収まらない、そういう新しい個人像を生み出そうとしているのです。』

 「ウチとソト」の概念はいつかは壊れるでしょう。いくつもの「場」が世界を幅広く覆い尽くす世界になるのです。それぞれの「場」に自分の居場所や立ち位置があって、それらが積み重なった「レイヤーの重なり」として自分が定義されるようになると、筆者は主張します。

 「ウチとソト」の境界がなくなってくる、というのは実感できます。しかし、レイヤー化された世界というのはいまひとつ腹に落ちません。それは、当たり前のことだと僕が思っているからなのかもしれません。僕が物心ついた時から、世界はレイヤー化していたような気がするのです。長男としての自分、研究室の一員としての自分、サークルの一員としての自分など、いろいろなレイヤーで定義される「自分」の集合体が僕ですよね。そんな感覚はとうの昔からあると僕は思うのです。みなさんはどうでしょうか。

レイヤーの時代を生き抜くために

 さて、レイヤー化された世界は今までの世界とは全く違うものになると筆者は言います。そんな時代を生き抜くための戦略は2つ。

 1つ目は、曖昧さを受け入れるということ。

『 レイヤーで横に広がる私たちは、どこからどこまでが自分で、どこから先が他社なのかははっきりしていません。でもその境界線のあいまいさを気にする必要はない。逆に境界線がはっきりしないからこそ、自分と他者がしなやかにつながることができるのです。そういうあいまいさを受け入れ、レイヤーごとに他者とつながり、そのさまざまなつながりの総体として自分をつくりあげていくという考え方。これが第一の戦略です。』

 2つ目は、「場」にデータをとられていることを自覚しながらも、「場」を積極的に利用していく姿勢。

『〈場〉はテクノロジーそのものです。それは時にはフェイスブックであり、グーグルであり、ラインであり、スカイプであり、アップルである。そういうテクノロジーを使いこなし、〈場〉を利用し、〈場〉に利用されるということ。つねに〈場〉は人びとを管理し、支配し、そしてさまざまなデータを吸い上げて人びとの行動を奪い取ります。しかしそういう収奪も織り込み済みととらえて、承知のうえで〈場〉のテクノロジーを利用していくということ。これが第二の戦略です。』

 この2つは、デジタルネイティブ世代は難なく対応できるのではないのかなと思います。なんだか当たり前だなぁと思ってしまいました。歴史を振り返る前半部分が非常に面白かっただけに、後半はすこし尻すぼみな印象でした。 

 

 

これからの社会について。

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