【外見だけで判断しない】書評:片眼の猿/道尾秀介
概要
道尾秀介さんの2007年の作品。私立探偵が主人公のミステリー小説です。ライバルの探偵事務所のエージェントを引き抜き、一緒に仕事を始めたところで噴出する数多の謎。きっと騙されると思います。
おすすめポイント
軽やかな書きっぷりの下に隠されたトリックにまんまとやられました。物語の内容、仕掛けられたトリックから、いかに自分が先入観で物事を判断しているかを痛感しました。哲学的で考えさせられるテーマと、小説としての面白さを両立した作品でした。
感想
片眼の猿が潰したもの
タイトルの片眼の猿は、物語の途中で出てくる寓話チックなお話に由来しています。
『昔、九百九十九匹の猿の国があった。その国の猿たちは、すべて片眼だった。顔に、左眼だけしかなかったのだ。ところがある日その国に、たった一匹だけ、両眼の猿が産まれた。その猿は、国中の仲間にあざけられ、笑われた。思い悩んだ末、とうとうその猿は自分の右眼をつぶし、ほかの猿たちと同化した。』
この小話の解釈は、単に「自分の個性を大事にしよう」的なものでは終わりません。
『「なあ、猿がつぶした右眼は、何だったと思う?」 俺が訊ねると、冬絵は戸惑ったように首をかしげた。 「俺はこう思うんだ。猿がつぶしたのは、そいつの自尊心だったんじゃないかって」』
これは主人公の三梨のセリフです。他の猿と違っていることを嫌い、右眼を潰した猿は、自分の自尊心を潰した。三梨はそう解釈しました。彼自身、耳の外見が人と異なり、そのことで小さい頃からからかわれてきました。ライバル探偵事務所からスカウトした冬絵も、自分の目に関して同じような経験をしています。このふたり以外にもそのような特徴を持っている登場人物がいます。
自尊心とは自分の人格を肯定し、大切に思う気持です。だから外見が他人と違っているからといってその部分を隠したり潰したりしてしまうことは、自分の人格を否定する行為に他ならない。三梨は自分の耳のことをきちんと受け入れているような印象でしたが、冬絵はどこか逃げ腰でした。そんな冬絵の態度を三梨は見抜いていたのですね。
この物語が片眼の猿の話を深く掘り下げることができているのは、小説という形態をとっているからだと思います。読んだ方はわかると思いますが、映像作品ではダメなのです。言ってしまえば叙述トリックということになると思いますが、単に読者を騙すだけの仕掛けではないと僕は思いました。表面的な情報と自分の先入観に邪魔されて、人の本質が見えていないことは多々あるということを教えられました。秋絵の自殺原因も例に挙げるべきでしょう。外見と中身にギャップがあったとき、僕らはどのように対応すべきか。そんなことを考えさせられます。
人間の本質はなにか
人は往々にして、他人を見た目で判断してしまいます。どうすればいいのでしょうか。
『世間の人間は鳩を見て、ただ「鳩」だと感じる。雄だとか雌だとか、そんなことは気にしない。きっと、それと同じことなのだろう。このアパートの連中は人を見て、ただ「人」だと感じる。それだけなのだ。簡単なようで、手に入れることの難しいその大切な感覚を、彼らはしっかりと持っている。』
人より背が低かったり、髪の毛が天然パーマであることを僕らはすごく気にします。一方で公園にいる鳩を見ても、人はそのオスメスさえも気にしない。人と鳩を同様に扱うことは無理でしょうが、少なくとも鳩をただ鳩だと認識するような、そういうざっくりとした認識の仕方もあるでしょ?というメッセージを感じました。
では、外見ではなく、なにを意識すべきなのか。人間の本質はどこにあるのか。それに対する答えも、三梨は持論を語ってくれます。
『人間というのはけっきょく、記憶なのではないだろうか。姿かたちが人間をつくるのではないし、見聞きしてきた事実だけが人間をつくるのでもない。事実の束をどう記憶してきたか。きっと、それが人間をつくるのだろう。そして、事実の束をどう記憶するかは、個人の勝手だ。自分自身で決めることなのだ。』
人間は記憶だと言っていますが、このセリフ中の「記憶」は、自分なりに咀嚼して、脳に記録するというツーステップを含んでいるような気がします。事実の受け止め方、処理の仕方に目を向けろ、ということでしょうか。
こういう、ちょっと小洒落た哲学的な話が僕は好きです。他に挙げるならこんな感じ。