ネットワーク的読書 理系大学院卒がおすすめの本を紹介します

本と本の意外な「つながり」ってありますよね

【価値観が崩れ去る恋】書評:真昼なのに昏い部屋/江國香織

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

 

概要

 江國香織さんが中央公論文芸賞を受賞した作品。絵に描いたような「家を守る」タイプの真面目な主婦美弥子が、近所に住むアメリカ人ジョーンズと不倫の恋に落ちていく物語です。

おすすめポイント

 3人称のですます調で進んでいくこの作品は、ほかの作品とは一味違った読み心地でした。恋の持つパワーを恐ろしいほど感じる作品です。

感想

3人称のですます調

 物語の大筋はいたってシンプルです。主婦の美弥子が不倫の恋に転がり落ちていく様を描いただけです。主に美弥子の心境が変化していく様子を描いています。3人称のですます調の文章で書かれると、なんとも不思議な感じがします。

腹が立つのは、美弥子さんがひどく無邪気に見えることでした。まるで、自分の良心には一点の曇りもないというように。ナタリーの意見では、それは誰かのーあるいは何かのー保護下にある女の特徴でした。遠い昔、自分もそうだったことを憶えています。夫だった男性の横で、いまの美弥子さんみたいににこにこしていたときが確かにあったのです。 

 「美弥子は無邪気である」と書くのではなく、「無邪気に見える」と書かれます。すべての文章が他人のフィルターを通過してから届く感じがしました。ですが、自分で自分のことを無邪気だと言う人はいないわけで、無邪気に見えるというのがどういうニュアンスなのかきちんと伝わってくるわけです。面白いですね。

心の変化を追えるか

 上の引用にあるように、最初は美弥子は夫である浩の庇護下にいます。それが、ジョーンズと一緒にいるにつれ、だんだん変わってきます。

まったく驚くべきことでした。ジョーンズさんといると、1日ずつが新しいということや、世のなかにはいろいろな人がいるということ、色が溢れ音が溢れ匂いが溢れていること、すべてが変化するということ、すべての瞬間が唯一無二であること、でも、だからこそ惜しまなくていいこと、などなこわいくらい鮮烈に感じられます。

 変化はゆっくりですが、着実に進行していきます。そしてある時を堺にして、美弥子は今までとは違った世界に踏み出してしまったことを知ります。

すべての伝言を聞き終え、メイルを読み終えた美弥子さんは、愕然としました。この人たちは一体誰なの?そう思ったからです。勿論、誰であるかは知っていました。みんな、美弥子かんがよく知っているつもりだった人たちです。けれど、いま彼らは揃いも揃ってひどく遠い場所ー対岸ーにいるようでした。「どうしよう」そしてもう一度、ぼんやりと呟きました。私、世界の外へ出ちゃったんだわ。美弥子さんにわかったのは、そのことでした。 

 「世界の外に出ちゃった」。あまりにも踏み外した印象をもつその言葉が、美弥子の心の中に浮かびます。それはさすがに大げさなんじゃないの?と僕は最初思いました。しかしそれはジョーンズにとっては特に不思議なことではないようです。さすが、いろいろなところを旅していろんな経験をしてきただけあります。

ジョーンズさんにしてみれば、けれどそれらはまったく信じられることで自分のまわりに確固たる世界があると思い込むのは錯覚にすぎませんし、足元とが揺らぐとか、既存の価値観が崩れ去るとかいうことは、人生のうちで人がしばしば経験せざるを得ないことです。ジョーンズさんの意見では、美弥子さんはただ単に、真理を発見したのです。 

 人は既存の価値観が崩れ去ることを経験する。それを美弥子は「世界の外に出る」と表現したわけですね。そして終盤になってようやく美弥子は気づきます。

あっというまに転落してしまった。美弥子さんは思いました。 転落? 自分の言葉に自分で戸惑い、眉根を寄せます(理解しにくいことを理解しようとするときの、それがこの人の癖でした)。私は転落したのかしら。でも、どこから? 

 そう、僕が疑問に思ったのもまさにこれで、「どこから?」ということなのです。美弥子の心はどこから変わってしまったのか。どの時点で世界の外に出てしまったのか。たぶん、明確にここと指し示すことはできないのでしょう。「どこからが不倫か?」という問いに対して「心が離れたら」と答えるのは一見筋が通っているのですが、じゃあこの物語において美弥子の心はいつ離れたのでしょう。それがわからなければ、どこからが不倫かも永遠に分からずじまいです。ああ。本当に難しい問題です。

遠すぎた夫との距離

 僕が一人の男として気になったのが、最後の最後まで美弥子と夫である浩の間に、心の通ったコミュニケーションがなかった点です。女にモテモテだった浩が美弥子を口説くためにいかに努力したかを語るシーンもありましたが、結婚する前からこの二人は本音をさらけ出したコミュニケーションをとってこなかったのではないかと疑いたくなります。食卓を囲んで交わされる会話も全くかみ合っておらず、お互いにそれを気にするそぶりもない。

 極めつけはジョーンズと頻繁に出かけていることを知った浩の対応です。もう、噛みあわないどころの話ではありません。上の引用にあったように、二人の住む世界は完璧にずれてしまったようでした。これっぽっちの言葉も思いも届かないのです。3人称で語られているからこそ、お互いの意思がわかり、そのすれ違いの大きさに気づいて僕ら読者は愕然とします。それはもう恐ろしいほどなのです。

 今まで曲がりなりにも夫婦として過ごしてきた二人が、これほどまでに離れてしまったのはなぜなのでしょうか。ちんけな表現ですが、これが恋の持つ力なのでしょう。それはいともたやすく人間の世界観を変えてしまいます。タイトルの「真昼なのに暗い部屋」に関して、ジョーンズが以下のような言葉を発します。

「電気をつけてしまうと、途端に味けなくなるんです」台所から声がしました。「暗がりにしか生息できない、目に見えないものたちがいて、あかるくすると、そいつらが逃げだしてしまうからだと僕は思いますね」 

 タイトルは少しつかみどころのない感じがします。ジョーンズの言う得体のしれない生物も、このセリフにしか登場しません。恋の持つパワーを、僕らはひたすらポジティブなものだと捉えていますが、ひょっとしたら暗がりに潜む邪悪な生物のように、僕らの世界を壊したがっているのかもしれません。やばいと思ったら逃げるべきなのかもしれないですが、僕は逃げ切れる自信がありません。美弥子がそうであったように、気づいたときには、もう遅いのでしょう。普遍的なテーマを掲げているので誰が読んでもいろいろ考えさせられるのではないかと思います。Bランクに入れます。

 

 

 そのほか、不倫をメインテーマにした作品。

 東野圭吾さんの「夜明けの街で」は不倫とミステリーを掛けあわせた作品でした。

 中村航さんの「僕の好きな人がよく眠れますように」は不倫をどこまでもピュアに仕立てあげた作品でした。