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【真正面から向き合う】書評:ふくわらい/西加奈子

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 

概要

 2013年度本屋大賞5位にして第1回河合隼雄物語賞受賞作。編集者の「定」は特殊な環境で育ったせいで一般的に人が抱く感情をうまく理解できません。ある日、雑誌に連載を持つプロレスラーの担当になったことから、物語が動き出します。

おすすめポイント

 魅力的な登場人物たちに引き込まれます。人とはちょっと違うところがある彼らが語る言葉は、妙な説得力を持って僕の心を打ちました。

感想

 僕が言っても全然説得力がないけれど、この人が言うと説得力がある、そんな言葉が世界には溢れていると思います。同様に、作者が直接言ったところで意味不明だけど、小説の登場人物が言うと妙に納得できる言葉というのもあると思うのです。この作品には、「コイツにしか言えない言葉」というものがたくさんあったように思います。

 登場人物の中でも特に目を引くのが主人公の定と、プロレスラーの守口、そして盲目の西洋人次郎。彼らは三者三様にぶっ飛んだキャラクターで、それぞれが重きを置いて大事にしているものは全く異なるのに、なぜか同じテーマについて語っているように聞こえてしまいます。

見ることと知ること、そして本当の自分

 定はふくわらいが大好きで子供の頃からふくわらいばかりをして育ってきました。タオルで目を隠して、顔を組み上げるだけの単純作業。それが大好きでした。

 定の乳母である悦子は片目が見えません。定の担当作家である水森康人も盲目。そして後に出会う次郎も盲目。定の周りには目が見えない人がたくさんいます。

 定と対照的なキャラとして登場するのが、美人編集者の小暮しずく。定と同僚である彼女は、自分を外見でしか判断しない世間に憤っています。一方で、定はお世辞にも美人だとは言いがたいというような描写がなされていますが、目の見えない人たちは定を好いています。

 目が見えないから外見に左右されない、という単純な話ではありません。視覚情報が得られない時、人はどのような判断をするのか。逆に目が見えている僕らが本当に見るべきものはなんなのか。

「小暮さんそのものとは、どういうことですか。」

「え。」

「小暮さんそのものとは、どういうことなのでしょうか。」

「いや、だから、私の顔とか容姿とかじゃなくて、本当の私のことです。」

「本当の私…。ということは、小暮さんの顔や容姿は、本当の小暮さんではないのですか。」

「…そういうわけではないですけど、それがすべてではないですよね。」

「すべてではない、そうですね。でも、小暮さんは、顔や容姿、そして、小暮さんのおっしゃる本当の小暮さんを含めて、小暮さんですよね」

 安易に、目に見えていない部分を「本当の自分」と決めつけることもまた、よくないのかもしれません。でもそうなると、人を判断すること、人を選ぶことの基準が全くわからなくなってしまいます。

でも、その情報が絶たれると、『知る』ということが、どういうことなのか、改めて考えざるを得なくなるんです。知るって何だろう。今も分かりません。だから僕は、自分で自分の『知る』を決めるしかないと思った。僕には定さんの姿が見えない。でも、僕の知っているすべての定さんは、見えている人よりも、もしかしたら小さな世界かもしれないけれど、とても美人で、優しくて、それが大切なんです。僕は、優しくて美人の定さんと一緒にいたい。短時間しか経っていないし、もちろんその『すべて』は、刻々と変わってゆくし、かといって『すべて』が完成されるときがくるとは思えないけれど、僕はただ、定さんのことが好きなんです。

 そこで次郎の滅茶苦茶な理論が、なぜか説得力を持って浮かび上がってきます。自分なりの基準を常に考え続けること。そして、完璧を求めないこと。長い時間をかけたって『すべて』が分かるわけではありません。次郎の発言は支離滅裂なようで、実は最初から一貫していたのだと、読み終わってから気付きました。

顔のパーツ、言葉、体

 定はふくわらいを通して、人間の顔はパーツの集まりにすぎないことを知りました。でも、それは尊いことで、目や鼻や口や眉毛の配置が少しでも変われば、人の印象はまったく変わったものになりますよね。

 ふくわらいと同様に、文章というのも言葉の寄せ集めにすぎません。しかし、寄せ集められた言葉が有機的に結合し、ひとつの意味を持つ文章ができあがる。そこに定は感動を覚えます。

 プロレスラーの守口は雑誌にコラムを持っていて、定期的に自分の文章でお金をもらっています。プロレスと執筆。体と言葉。その相反するものに挟まれて、彼は悩みます。

「プロレスは言葉を使わない。言葉を、きちんと文章にしなくていいんだ。体がそれをやってくらるから。何万語駆使して話すより、1回関節決められたほうが伝わることがあるんだ。俺は相手の体を体験するんだ。体が体験するんだ、わかるんだ。おいらの体が。おいらの、この、おいらの体がだぞ?ひとつしかねえんだ。わかるか。それが、どれほどすげぇことか。」

「分かります」

定には本当に、分かっていた。だがそれを、守口に伝える術を知らなかった。自分の体が、自分のものだけだということ。体の匂い、皮膚の皺ひとつひとつが、残らず自分のものだということ。

 パーツの寄せ集めで構成された自分の体は、同じく寄せ集めの文章に勝ることもあります。定は文章が好きで編集者をやってきました。彼女は一方で父親と旅をする中で、体で体験することの重要さも認識しています。でも、そのことに関してはプロレスラーの守口が一枚上手で、プロレスを通して定と読者に訴えかけてくるのです。終盤のプロレスのシーンは圧巻でした。体でしか表現できないものがあって、言葉にはできないけれど定もしっかりそれを受け取っていました。

真正面から向き合うこと

 ふくわらいは真正面の顔をいじくるものです。横顔のふくわらいなんてないでしょう。だから、定は人の顔の横顔をあまり意識しません。無意識に、いつも正面から向き合っています。でも、それは一般人にはなかなか難しい。どうしても、相手の見えていないところで相手の陰口を叩いてしまいます。相手の裏の顔を想像しようとしていまいます。正面だけが顔じゃないと僕らは思っているからです。

 でも、定は違う。守口は定をアントニオ猪木と同じく天才だと言いました。

「おいらにらは分かるんだ。おいら、ずっと天才を見てきたんだもの。まぢかで、見てきたんだもの。」

「私はそんな立派なものではありません。」

「分かるんだ。あんたは、まっすぐだから。全部、正面から、見て、それから、全部、受け止めるから。」 

 定は不思議なキャラクターをしています。その不思議さを、僕はなかなか言葉にすることはできませんでした。でも、守口はそれを綺麗に簡潔に表しました。全部正面から見て、受け止める。だから定は盲目の人たちから好かれたのだと思います。

 彼女は投げかけられた言葉をすべて真正面からきちんと受け止めます。横へ受け流したり、乱暴に投げ返したりはしないのです。読み返してみてください。返す言葉に詰まったとしても、定は相手の言葉をないがしろにはしません。それが、定という人なのです。次郎は、そこを彼女の美しさと定義したのかなと思いました。

 ぼんやりとした世界観なのですが、「ふくわらい」が色々なところにひっかかって不思議な重厚感を作り出している物語でした。

 

 

 僕はすごく気に入りましたが、「ふくわらい」は多少とっつきにくさを感じるかもしれません。西加奈子さんの作品は他に「きいろいゾウ」を読んだのでオススメしておきます。