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【みんなの恋はきっと変】書評:泳ぐのに、安全でも適切でもありません/江國香織

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

 

概要

 江國香織さんが山本周五郎賞を受賞した短編集。全10編の物語が収められています。主人公はすべて女性です。 

おすすめポイント

  極めて短い短編の中で垣間見えるのは、彼女たちのちょっと変な恋愛の価値観。それがどのような価値観で、どのようにして形作られ、そしてどんな風に揺れ動くかを、ほんの短い短編の中で切り出していきます。その切れ味の鋭さを楽しめる短編集です。

感想

 それぞれの主人公が持つ恋愛観は、なんだかちょっと変なのです。みんな違ってみんな変。もしかしたら自分がおかしいのかとも思ってしまうぐらいです。しかしただ奇妙ではない。だから、なんだか妙に心に残ったりします。

人生は勿論泳ぐのに安全でも適切でもないわけですが、彼女たちが蜜のような一瞬をたしかに生きたということを、それは他の誰の人生にも起こらなかったことだということを、そのことの強烈さと、それからも続いていく生活の果てしなさと共に、小説のうしろにひそませることができていたら嬉しいです。 

 10編の物語の中で描かれる恋愛は、変わった状況のものもあれば、ごくごく普通の恋だったりします。だけど、主人公たちにとってはすべてが特別な今で、それは他の誰でもなく自分が経験していることなのです。上の引用には「強烈さ」という言葉が使われていますが、それは本当に強烈な事実です。

 印象に残った短編だけ感想を書いていこうと思います。引っかかるものがなかったお話も、きっと誰かの心に残ったりするのでしょうが、僕の中から湧き上がるものがないと感想も書きにくいので。

うんとお腹をすかせてきてね

 2番目に収録されています。主人公美代が恋人の国崎について語ります。

女は、いい男にダイエットをだいなしにされるためにダイエットをするのだ。 

 出だしからぐっと掴まれました。矛盾の塊のような文なのに、何故か言いたいことが分かってしまう。

国崎裕也は、あたしにとって恋人であると同時に、もっとずっと親密なもの,たとえば自分の心臓とか、であるような気がする。心臓が自分の外側にあり、あまつさえ勝手に行動しているというのは不便だけれど素敵なことだ。 

 美代は国崎の体が自分の一部にになる感覚を覚えます。それと同時に、自分の体について新しい発見をする。

あたしは美代について、すごくいっぱい発見をした。たとえば美代という女はたくさん食べることができる。それに実にいろいろな声をだすことができる。おどろきの、嬉しさの、官能の、ため息や言葉たち。それはあたしの知らない、奇妙な一匹の動物の声だ。 

 原始的で本能むき出しの恋。それは本当に予想外の影響を自分にもたらすものなのかもしれません。

犬小屋

 8作目に収録されています。

 夫にべたべた甘えるタイプの妻が主人公。夫の気持ちなど考えずに自分勝手にふるまうくせに、自分はいたって普通の人間だと思っている。ある日、犬を飼うために犬小屋を作ったら、夫がその犬小屋で寝るようになってしまった。

「それにほら、冬になれば寒いし」郁子さんの声は、ひどく遠くにきこえた。郁子さんの声だけじゃなく、周囲の音すべてが遠のいた。そのぶん色や匂いだけが、浮きあがって思えた。「みんな変だわ」私は言ったが、その声にも、怒りは全然含まれていなかった。つぶやくみたいな声になった。 

 端から見たら犬小屋に頭を突っ込んで寝る男なんて狂気的ですが、江國さんの筆にかかると「そういうこともあるだろう」と思わされてしまいます。自分が普通だと思っていることは、誰かにとっては普通ではありません。そんな当たり前のことを理解できていない主人公がひどく滑稽に見えます。

十日間の死

 9作目に収録されています。

 家族の都合でフランスの学校に通うことになった主人公は、やんちゃで問題児。ヤンキー。マークという既婚の男性と恋に落ち、人生が変わる恋をする。

あたしは十六歳の、不貞腐れた不機嫌な娘だった。いま思うと、それも当然のことだ。あたしは世界に参加していなかったんだもの。自分の目でなにもかもみるっていうことだけど。マークに出会って徐々にそれを教えられるまで、十六年間もよく生き延びてきたと思う。自分の人生も持っていなかったのに。 

 ろくに学校にもいかず、マークと遊びまわる日々。

あたしはこの街で、教育ではなく人生を手に入れてしまった。それも、ものすごく鮮やかな。 

 ようやく手に入れた自分の人生。しかし、それも急落してしまいます。

九ヶ月前にやっと生まれたあたしは、あたしの知っていたマークと一緒に死んでしまった。もうこの世の中のどこにもいない。あたしはマークの幸運を祈った。それから二人組だったかつてのあたしと、かつてのマークを深く悼んだ。深く深く悼んだ。あたしはまた泣き始める。あたしのはじめての恋とはじめての人生と、失われた真実のために。 

 はじめての恋と、はじめての人生が主人公の中で終わりを告げます。さんざん泣き散らした後で、きっと次の人生が始まるに違いありません。

愛しい人が、もうすぐここにやってくる

 10作目に収録されています。

 妙齢の男女の不倫の話。

「恋愛がすべてではないわよね」私は一度、大好きな男にそう言ってみたことがある。彼はすこし考えて、「すべてでは、ないだろうね」と、こたえた。それで十分だった。私たちはお互いに、どうあがいても愛している、と伝えあったのとおなじことだった。私たちは、たぶん単純な者同士なのだろう。複雑なことを、単純に複雑なまま受け入れてしまう。 

 不倫のお話は大抵不幸と隣り合わせですが、この物語の二人は全く違う。そこに悲壮感はかけらもありません。

大切なのは快適に暮らすことと、習慣を守ることだ。そう思いながら、私は本の頁をめくる。本の中では女性検事が同僚とお茶をのみ、随分とながい時間をかけて、ロンドン郊外で買物をしている。私の好きな男が妻と別れないのは、そこに帰るのが彼の習慣だからだろう。私はそんなふうに考えてみる。人にはみんな習慣があるのだ。 

 大人の余裕。習慣を守って自分のペースで生きれば、不倫だって怖くない。不倫も習慣のひとつにしてしまえばいい。そんな熟達した哲学が垣間見えます。 

 

 

 こちらも読みました。江國香織の短編集です。独特の言い回しが胸に残ります。