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【本の読み方、大丈夫ですか】書評:わかったつもり 読解力がつかない本当の原因/西林克彦

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)

 

概要

 文章をより深く理解するためには「わかったつもり」の状態を抜け出さなければならないと説く一冊です。「わかったつもり」状態とはどんな状態なのか、それを脱出するとはどういうことなのか、そしてその方法とはなんなのかが順に述べられています。

おすすめポイント

 本をただ読むだけでは不充分だったのかもしれない、と気づかされました。大きな一歩になったと思います。例が豊富に挙がっているので、実感しながら読み進めることができました。問題点を挙げるだけでなく、そこを抜け出すためのヒントもあります。これからは実践しながら本を読んでみたいです。

感想

文章を深く読むために

 まずはじめに、この本の主題である「わかったつもり」とはどんな状態なのかが説明されています。より深く文章を理解するためには、ここを抜けださなければなりません。「わかったつもり」を抜け出すのがなぜ難しいのかというと、ある程度は「わかっている」からなのです。

『「わかった」状態はひとつの安定状態です。ある意味、「わからない部分が見つからない」という状態だといってもいいかもしれません。したがって、「わかった」から「よりわかった」へ到る作業の必要性を感じない状態でもあるのです。浅いわかり方から抜け出すことが困難なのは、その状態が「わからない」からではなくて、「わかった」状態だからなのです。』

 この意識は大事だなと思いました。なんとなく読んでわかった気になっていても、まだまだ深い読み方があるのかもしれないと疑う姿勢です。僕は今まで考えたこともなかったです。

「わかったつもり」になる原因

 そもそも僕たちはどのようにして未知の文章を読んでいるのでしょうか。本書ではそこから詳しく解説されています。使う武器はふたつ。「スキーマ」と呼ばれるひとまとまりの知識を無意識に利用し、文章にそれらしい「文脈」を当てはめて読んでいる、というのがエッセンスです。

 本で挙げられていた例ですが、「サリーがアイロンをかけたので、シャツはきれいにだった」と「サリーがアイロンをかけたので、シャツはしわくちゃだった」という2つの文があります。これらは正反対のことを言っていますが、サリーがどんな人か、という知識があれば、どちらも意味の通る文章になりますよね。文章を読むうえでは、僕たち側にも備えがあるわけです。

 「スキーマ」と「文脈」は強力な武器で、これがあるからこそ、僕らは文章を読むことが出来ます。しかし、ときにこれらの強力過ぎる武器は、諸刃の剣となってしまいます。

『「間違ったわかったつもり」の状態では、部分が「読み飛ばされ」て、しっかりとした意味が引き出されていません。全体の大雑把な文脈を打ち破るほどには、部分が読まれていないので、間違った状態が維持されているというわけです。簡単にいえば、部分の読みが不充分だったり間違ったりしているので、間違った「わかったつもり」が成立するのです。』

 人は文章の行く末を自分勝手に判断し、それに当てはまるような解釈を無意識に行ってしまうと筆者は言います。多少変なところがあっても、矛盾が大きくなければ読み飛ばしてしまう。それが積もり積もって底の浅い解釈になり、「わかったつもり」状態に陥ってしまうのです。

 例えば、「『いろいろ』というわかったつもり」というものが提唱されています。

『ものごとには、いろいろなものがあります。そして、ものごとにいろいろあるのは当たり前です。いろいろな人間がいますし、いろいろな形の車があります。ですから、いろいろあるということは、あまりにも当然です。したがって、「いろいろあるのだな」と認識した時点で、実は人はそれ以上の追求を止めてしまうのです。これが「『いろいろ』というわかったつもり」の魔力です。』

 これは身につまされます。いろいろな価値観があるんだと思った、という薄っぺらい感想をこれまで幾度と無く書いてきてしまったと思います。「いろいろ」なのは当たり前で、それでも何か共通のものを見つけようとしたり、対比できる点を探す必要がありますよね。

「わかったつもり」を打破するには

 より深く文章を読むためにはどうすればいいでしょうか。まずは心構えから変えましょう。

『自分は「わかっている」と思っているけれど、「わかったつもり」の状態にあるのだ、と明確に認識しておくことが必要です。すなわち、今は見えていないけれど必ずもっと奥があるはずだ、と認識しておく必要があるのです。』

 自分ではなかなか気づかないものだと思います。おそらく、一読しただけでは大半の文章は「わかったつもり」なのかもしれません。そこで有効なのが要約してみて、自分で書いた要約文をチェックしてみることです。

『文章を読んで概略や解釈を述べるときに、「当たり障りのないきれいごと」が出てきたら要注意なのです。そのときは、その「当たり障りのないスキーマ」を意識しながら、それが本当に文章の当該部分に適用できるのかと疑い、記述にあたってみてください。記述の「まとめ」と「例示」は対応しているでしょうか。文中のことがらは、本当に「事例」になっているでしょうか。「当たり障りのないスキーマ」を使って、論の運びを大雑把に捉えていないでしょうか。論の運びの上で大きな隙間のあるところを、「当たり障りのないスキーマ」を使って、自分で勝手に埋めていないでしょうか。』

 そしてひとつの文脈だけでなく、別の文脈を適用してみる。ここで言う文章は、視点という言葉が近いかもしれません。別のポイントに注目して読むと、思わぬ類似性が見られ、それが新しい解釈に繋がる場合があると述べられています。

『最初の「わかったつもり」を、文脈を交換しながらたんねんに読むことによって壊すと、通常、次には新たな「矛盾」や「無関連」による「わからない」状態が待っています。(中略)このような「矛盾」や「無関連」は、次の「よりよくわかる」ための契機となるのです。』

 別の文脈を当てはめた時、おかしなところが出てきたとします。でも、そこで考えることをやめないこと。なぜそんなおかしなことが出てくるのかを考える。てんで見当違いな考えだったのかもしれませんが、もしかしたら全く別の解釈につながるかもしれない。肝心なのは、考えるのをやめないことです。

国語のテストへの提言

 最後に、センター試験の過去問を引き合いにして、現在の国語教育に対する提言もなされています。国語の試験問題では、文章の解釈で最も適当なものを選べ、という設問が一般的です。しかしこれはあまり良い問題ではないという。

『 整合性のある解釈は、複数の存在が可能です。したがって、唯一絶対正しいという解釈は存在しません。しかし、ある解釈を「整合性がない」という観点から否定することは論理的にも実際にも可能で、しかも簡単です。ですから、「正しい」と「間違っている」という判定は、シンメトリーなものではありません。後者は明確に判定できますが、前者は「整合性はある」とか「間違っているとは言えない」という判定しかできないのです。このような非対称性をベースにしていることと、多くの人が持つ国語教育に対する違和感を考慮すれば、「最も適切なものを選べ」という設問は避けるべきであろうと思います。それに代わるものとして、「次のような解釈があるとする。このうち可能なものはどれか。可能でないものはどれか」といった設問形式がよいのではないかと私は考えるのですが、読者の方々はどのような印象を持たれるでしょうか 』

 「わかった」状態には深さがあるように、複数の解釈があることは不自然なことではありません。それなのに、正しいものを一つだけ選べという指示は間違っていると著者は言います。センター試験の国語が難しいなぁと感じていたのはここに原因があったのかもしれません。自分の解釈を持ちだしてしまっては混乱するだけですから、あくまで問題文の整合性を確かめる、という視点で望むことが大事なんだと思いました。

 文章をより良く読むためには、というシンプルなお題から、ボリュームのある論が展開されていました。文章を読むという日々当たり前に繰り返す動作に、新しい視点が加わりました。

 

読む力も大事ですが、伝える力もきっと大事です。

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