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本と本の意外な「つながり」ってありますよね

【みんなの恋はきっと変】書評:泳ぐのに、安全でも適切でもありません/江國香織

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

 

概要

 江國香織さんが山本周五郎賞を受賞した短編集。全10編の物語が収められています。主人公はすべて女性です。 

おすすめポイント

  極めて短い短編の中で垣間見えるのは、彼女たちのちょっと変な恋愛の価値観。それがどのような価値観で、どのようにして形作られ、そしてどんな風に揺れ動くかを、ほんの短い短編の中で切り出していきます。その切れ味の鋭さを楽しめる短編集です。

感想

 それぞれの主人公が持つ恋愛観は、なんだかちょっと変なのです。みんな違ってみんな変。もしかしたら自分がおかしいのかとも思ってしまうぐらいです。しかしただ奇妙ではない。だから、なんだか妙に心に残ったりします。

人生は勿論泳ぐのに安全でも適切でもないわけですが、彼女たちが蜜のような一瞬をたしかに生きたということを、それは他の誰の人生にも起こらなかったことだということを、そのことの強烈さと、それからも続いていく生活の果てしなさと共に、小説のうしろにひそませることができていたら嬉しいです。 

 10編の物語の中で描かれる恋愛は、変わった状況のものもあれば、ごくごく普通の恋だったりします。だけど、主人公たちにとってはすべてが特別な今で、それは他の誰でもなく自分が経験していることなのです。上の引用には「強烈さ」という言葉が使われていますが、それは本当に強烈な事実です。

 印象に残った短編だけ感想を書いていこうと思います。引っかかるものがなかったお話も、きっと誰かの心に残ったりするのでしょうが、僕の中から湧き上がるものがないと感想も書きにくいので。

うんとお腹をすかせてきてね

 2番目に収録されています。主人公美代が恋人の国崎について語ります。

女は、いい男にダイエットをだいなしにされるためにダイエットをするのだ。 

 出だしからぐっと掴まれました。矛盾の塊のような文なのに、何故か言いたいことが分かってしまう。

国崎裕也は、あたしにとって恋人であると同時に、もっとずっと親密なもの,たとえば自分の心臓とか、であるような気がする。心臓が自分の外側にあり、あまつさえ勝手に行動しているというのは不便だけれど素敵なことだ。 

 美代は国崎の体が自分の一部にになる感覚を覚えます。それと同時に、自分の体について新しい発見をする。

あたしは美代について、すごくいっぱい発見をした。たとえば美代という女はたくさん食べることができる。それに実にいろいろな声をだすことができる。おどろきの、嬉しさの、官能の、ため息や言葉たち。それはあたしの知らない、奇妙な一匹の動物の声だ。 

 原始的で本能むき出しの恋。それは本当に予想外の影響を自分にもたらすものなのかもしれません。

犬小屋

 8作目に収録されています。

 夫にべたべた甘えるタイプの妻が主人公。夫の気持ちなど考えずに自分勝手にふるまうくせに、自分はいたって普通の人間だと思っている。ある日、犬を飼うために犬小屋を作ったら、夫がその犬小屋で寝るようになってしまった。

「それにほら、冬になれば寒いし」郁子さんの声は、ひどく遠くにきこえた。郁子さんの声だけじゃなく、周囲の音すべてが遠のいた。そのぶん色や匂いだけが、浮きあがって思えた。「みんな変だわ」私は言ったが、その声にも、怒りは全然含まれていなかった。つぶやくみたいな声になった。 

 端から見たら犬小屋に頭を突っ込んで寝る男なんて狂気的ですが、江國さんの筆にかかると「そういうこともあるだろう」と思わされてしまいます。自分が普通だと思っていることは、誰かにとっては普通ではありません。そんな当たり前のことを理解できていない主人公がひどく滑稽に見えます。

十日間の死

 9作目に収録されています。

 家族の都合でフランスの学校に通うことになった主人公は、やんちゃで問題児。ヤンキー。マークという既婚の男性と恋に落ち、人生が変わる恋をする。

あたしは十六歳の、不貞腐れた不機嫌な娘だった。いま思うと、それも当然のことだ。あたしは世界に参加していなかったんだもの。自分の目でなにもかもみるっていうことだけど。マークに出会って徐々にそれを教えられるまで、十六年間もよく生き延びてきたと思う。自分の人生も持っていなかったのに。 

 ろくに学校にもいかず、マークと遊びまわる日々。

あたしはこの街で、教育ではなく人生を手に入れてしまった。それも、ものすごく鮮やかな。 

 ようやく手に入れた自分の人生。しかし、それも急落してしまいます。

九ヶ月前にやっと生まれたあたしは、あたしの知っていたマークと一緒に死んでしまった。もうこの世の中のどこにもいない。あたしはマークの幸運を祈った。それから二人組だったかつてのあたしと、かつてのマークを深く悼んだ。深く深く悼んだ。あたしはまた泣き始める。あたしのはじめての恋とはじめての人生と、失われた真実のために。 

 はじめての恋と、はじめての人生が主人公の中で終わりを告げます。さんざん泣き散らした後で、きっと次の人生が始まるに違いありません。

愛しい人が、もうすぐここにやってくる

 10作目に収録されています。

 妙齢の男女の不倫の話。

「恋愛がすべてではないわよね」私は一度、大好きな男にそう言ってみたことがある。彼はすこし考えて、「すべてでは、ないだろうね」と、こたえた。それで十分だった。私たちはお互いに、どうあがいても愛している、と伝えあったのとおなじことだった。私たちは、たぶん単純な者同士なのだろう。複雑なことを、単純に複雑なまま受け入れてしまう。 

 不倫のお話は大抵不幸と隣り合わせですが、この物語の二人は全く違う。そこに悲壮感はかけらもありません。

大切なのは快適に暮らすことと、習慣を守ることだ。そう思いながら、私は本の頁をめくる。本の中では女性検事が同僚とお茶をのみ、随分とながい時間をかけて、ロンドン郊外で買物をしている。私の好きな男が妻と別れないのは、そこに帰るのが彼の習慣だからだろう。私はそんなふうに考えてみる。人にはみんな習慣があるのだ。 

 大人の余裕。習慣を守って自分のペースで生きれば、不倫だって怖くない。不倫も習慣のひとつにしてしまえばいい。そんな熟達した哲学が垣間見えます。 

 

 

 こちらも読みました。江國香織の短編集です。独特の言い回しが胸に残ります。

 

【真正面から向き合う】書評:ふくわらい/西加奈子

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 

概要

 2013年度本屋大賞5位にして第1回河合隼雄物語賞受賞作。編集者の「定」は特殊な環境で育ったせいで一般的に人が抱く感情をうまく理解できません。ある日、雑誌に連載を持つプロレスラーの担当になったことから、物語が動き出します。

おすすめポイント

 魅力的な登場人物たちに引き込まれます。人とはちょっと違うところがある彼らが語る言葉は、妙な説得力を持って僕の心を打ちました。

感想

 僕が言っても全然説得力がないけれど、この人が言うと説得力がある、そんな言葉が世界には溢れていると思います。同様に、作者が直接言ったところで意味不明だけど、小説の登場人物が言うと妙に納得できる言葉というのもあると思うのです。この作品には、「コイツにしか言えない言葉」というものがたくさんあったように思います。

 登場人物の中でも特に目を引くのが主人公の定と、プロレスラーの守口、そして盲目の西洋人次郎。彼らは三者三様にぶっ飛んだキャラクターで、それぞれが重きを置いて大事にしているものは全く異なるのに、なぜか同じテーマについて語っているように聞こえてしまいます。

見ることと知ること、そして本当の自分

 定はふくわらいが大好きで子供の頃からふくわらいばかりをして育ってきました。タオルで目を隠して、顔を組み上げるだけの単純作業。それが大好きでした。

 定の乳母である悦子は片目が見えません。定の担当作家である水森康人も盲目。そして後に出会う次郎も盲目。定の周りには目が見えない人がたくさんいます。

 定と対照的なキャラとして登場するのが、美人編集者の小暮しずく。定と同僚である彼女は、自分を外見でしか判断しない世間に憤っています。一方で、定はお世辞にも美人だとは言いがたいというような描写がなされていますが、目の見えない人たちは定を好いています。

 目が見えないから外見に左右されない、という単純な話ではありません。視覚情報が得られない時、人はどのような判断をするのか。逆に目が見えている僕らが本当に見るべきものはなんなのか。

「小暮さんそのものとは、どういうことですか。」

「え。」

「小暮さんそのものとは、どういうことなのでしょうか。」

「いや、だから、私の顔とか容姿とかじゃなくて、本当の私のことです。」

「本当の私…。ということは、小暮さんの顔や容姿は、本当の小暮さんではないのですか。」

「…そういうわけではないですけど、それがすべてではないですよね。」

「すべてではない、そうですね。でも、小暮さんは、顔や容姿、そして、小暮さんのおっしゃる本当の小暮さんを含めて、小暮さんですよね」

 安易に、目に見えていない部分を「本当の自分」と決めつけることもまた、よくないのかもしれません。でもそうなると、人を判断すること、人を選ぶことの基準が全くわからなくなってしまいます。

でも、その情報が絶たれると、『知る』ということが、どういうことなのか、改めて考えざるを得なくなるんです。知るって何だろう。今も分かりません。だから僕は、自分で自分の『知る』を決めるしかないと思った。僕には定さんの姿が見えない。でも、僕の知っているすべての定さんは、見えている人よりも、もしかしたら小さな世界かもしれないけれど、とても美人で、優しくて、それが大切なんです。僕は、優しくて美人の定さんと一緒にいたい。短時間しか経っていないし、もちろんその『すべて』は、刻々と変わってゆくし、かといって『すべて』が完成されるときがくるとは思えないけれど、僕はただ、定さんのことが好きなんです。

 そこで次郎の滅茶苦茶な理論が、なぜか説得力を持って浮かび上がってきます。自分なりの基準を常に考え続けること。そして、完璧を求めないこと。長い時間をかけたって『すべて』が分かるわけではありません。次郎の発言は支離滅裂なようで、実は最初から一貫していたのだと、読み終わってから気付きました。

顔のパーツ、言葉、体

 定はふくわらいを通して、人間の顔はパーツの集まりにすぎないことを知りました。でも、それは尊いことで、目や鼻や口や眉毛の配置が少しでも変われば、人の印象はまったく変わったものになりますよね。

 ふくわらいと同様に、文章というのも言葉の寄せ集めにすぎません。しかし、寄せ集められた言葉が有機的に結合し、ひとつの意味を持つ文章ができあがる。そこに定は感動を覚えます。

 プロレスラーの守口は雑誌にコラムを持っていて、定期的に自分の文章でお金をもらっています。プロレスと執筆。体と言葉。その相反するものに挟まれて、彼は悩みます。

「プロレスは言葉を使わない。言葉を、きちんと文章にしなくていいんだ。体がそれをやってくらるから。何万語駆使して話すより、1回関節決められたほうが伝わることがあるんだ。俺は相手の体を体験するんだ。体が体験するんだ、わかるんだ。おいらの体が。おいらの、この、おいらの体がだぞ?ひとつしかねえんだ。わかるか。それが、どれほどすげぇことか。」

「分かります」

定には本当に、分かっていた。だがそれを、守口に伝える術を知らなかった。自分の体が、自分のものだけだということ。体の匂い、皮膚の皺ひとつひとつが、残らず自分のものだということ。

 パーツの寄せ集めで構成された自分の体は、同じく寄せ集めの文章に勝ることもあります。定は文章が好きで編集者をやってきました。彼女は一方で父親と旅をする中で、体で体験することの重要さも認識しています。でも、そのことに関してはプロレスラーの守口が一枚上手で、プロレスを通して定と読者に訴えかけてくるのです。終盤のプロレスのシーンは圧巻でした。体でしか表現できないものがあって、言葉にはできないけれど定もしっかりそれを受け取っていました。

真正面から向き合うこと

 ふくわらいは真正面の顔をいじくるものです。横顔のふくわらいなんてないでしょう。だから、定は人の顔の横顔をあまり意識しません。無意識に、いつも正面から向き合っています。でも、それは一般人にはなかなか難しい。どうしても、相手の見えていないところで相手の陰口を叩いてしまいます。相手の裏の顔を想像しようとしていまいます。正面だけが顔じゃないと僕らは思っているからです。

 でも、定は違う。守口は定をアントニオ猪木と同じく天才だと言いました。

「おいらにらは分かるんだ。おいら、ずっと天才を見てきたんだもの。まぢかで、見てきたんだもの。」

「私はそんな立派なものではありません。」

「分かるんだ。あんたは、まっすぐだから。全部、正面から、見て、それから、全部、受け止めるから。」 

 定は不思議なキャラクターをしています。その不思議さを、僕はなかなか言葉にすることはできませんでした。でも、守口はそれを綺麗に簡潔に表しました。全部正面から見て、受け止める。だから定は盲目の人たちから好かれたのだと思います。

 彼女は投げかけられた言葉をすべて真正面からきちんと受け止めます。横へ受け流したり、乱暴に投げ返したりはしないのです。読み返してみてください。返す言葉に詰まったとしても、定は相手の言葉をないがしろにはしません。それが、定という人なのです。次郎は、そこを彼女の美しさと定義したのかなと思いました。

 ぼんやりとした世界観なのですが、「ふくわらい」が色々なところにひっかかって不思議な重厚感を作り出している物語でした。

 

 

 僕はすごく気に入りましたが、「ふくわらい」は多少とっつきにくさを感じるかもしれません。西加奈子さんの作品は他に「きいろいゾウ」を読んだのでオススメしておきます。

【ファッションの歴史を変えた女】書評:シャネル 最強ブランドの秘密/山田登世子

シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)

シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)

 

概要

 創業者ココ・シャネルの人生を振り返りながら、ブランドとしてのシャネルの歴史を紐解いていきます。シャネル自身の言葉をふんだんに引用し、彼女の持つ魅力に迫る一冊です。

おすすめポイント

 シャネル自身の強烈なキャラクターと時代の大きなうねりを軸に展開される解説は、最後まで非常に面白かったです。遠い過去の人の話ではありません。最終的に今僕らが着ている服にも繋がってくると考えると身近に感じられます。

感想

 僕らは毎日服を着ますから、誰しもが少なからずファッションに気を使います。でも、ファッションの歴史を知っている人は少ないのではないかと僕は思います。僕が来ている服は、なぜこんな形なのだろう、どのような経緯でこの形に収まったのだろう。そんなことを考えながら服を着たことなど一度もありませんでした。

 この本はファッションの歴史を語るものではありません。単に、シャネルという一つのブランドが生まれた経緯、そして有名になった経緯を綴った本です。しかし、シャネルの創業者ココ・シャネルの人生を追う内に、ファッションには長い歴史があって、その流れを大きく変えた女性こそがココ・シャネルなのだと知ることになります。二度の世界大戦のさなかにあって、シャネルが成し遂げたことは歴史の一部になっているといっても過言ではないと思います。そういう意味で、この本を読むとファッションの歴史を知ることになります。

 ただ無機質にシャネルの功績を述べていく本だったとしたら、退屈で放り投げてしまっていたかもしれません。この本は歴史の大きなうねりの中にたたずむ一人の女性としてのココ・シャネルをきちんと描いた本なのだと思いました。だから、人間味をすごく感じます。

 僕の心に残ったポイントをいくつか挙げていこうと思います。

「おしゃれ」の再定義

 シャネルは「おしゃれ」とは何か、ということを再定義した人でした。というのも、シャネルが服を作って売り始めた当初、おしゃれは貴族のためのものでした。限られた金持ちが己の財力をアピールするためだけに豪華なドレスが作られ、キラキラの宝石で着飾っていたのです。

 この現状を嘆き、シャネルは偽物の宝石で作られたアクセサリーを販売します。

わたしがイミテーション・ジュエリーをつくったのは、ジュエリーを廃絶するためだった。「廃絶」という語は、核兵器廃絶というようなときに使う語である。この皆殺しの天使は、金目の宝石を「廃絶する」ために偽物をつくりだしたのだ。まさにそれは革命の名に値する。なぜなら、こうしてはじめて、「おしゃれ」と「金」が同義のものでなくなり、エレガンスが財力から独立したものとなったからだ。シャネルとともに、ようやくおしゃれはひとりひとりの「センスの良さ」の問題になったのである。 

 シャネルは貧しい生まれです。シャネルは強い反骨精神を持って、従来のおしゃれをぶち壊しにかかります。自分が嫌っている貴金属のアクセサリーを流行遅れにするために、彼女は知恵を絞り、イミテーションジュエリーを普及させました。もちろんこれ以外にも彼女が新しく流行らせたものはありますが、この例が一番端的にシャネルの成し遂げたことを表していると思います。

自分の楽しみのために身につける宝石。金と無関係な戯れ。財力から独立して、誰もが享受できる「おしゃれ」がようやくここに始まったのである。こうしてみると、モダンなおしゃれの歴史は、実は驚くほどに日が浅い。贅沢はシャネルの登場を待ってようやく財力から離床し、ひとりひとりのセンスと創意にかかるものになったのである。 

 誰もがおしゃれを楽しめる時代。それはシャネルが活躍した1920年代からようやくスタートしたのです。そろそろやっと100年が経つところ。僕らはシャネルの功績の上に、好きな服を好きなように着られる時代を生きているのです。

ファッションと匿名性、著作権、そしてビジネス

 シャネルはコピーを許しました。シャネル以前のクチュリエ(服飾デザイナー)は断固としてオリジナリティを大事にし、著作権の保護を訴えていたのにも関わらずです。これはファッションの匿名性という観点で議論されます。

そう、シャネルにとって、ストリートから生まれるモードは「匿名のマス」のそれであった。シャネルはそれを明晰に自覚していた。というより、自覚せざるをえなかった。サロンのモードしか眼中にない他のクチュリエたちは、匿名性というストリート・ファションの精神をまったく理解できなかったからである。ここにもまた、シャネルと同年代のクチュリエたちを分けへだてる決定的な分岐点がある。シャネルは「既成のモード界」をむこうにまわして、ただ一人、デザインのコピーを容認し、オリジナルの権利を護ろうとしなかった。 

 ファッションのオリジナリティを護るという行為を、僕は上手く想像することができません。ファッションは流行りを追いかけるものであって、真似をするとか真似をしないとかの問題ではないと思っているからです。自分が生み出した新しい着こなしの著作権を求める人なんて今の時代にはいません。僕らの感覚は、当時シャネルが主張した考えに近いと言っていいでしょう。

引用されるのは「感嘆と愛のしるし」。まさにシャネルにとって、コピーとは広く大衆によって愛され、認められること以外の何ものでもなかったのである。コピーに憤激したポワレや、彼に同調したオートクチュール協会とはまったく逆に、シャネルとってコピーは「成功のしるし」以外の何ものでもなかった。ストリートが自分の作品を盗作したとしたら、それは自分の作品が時代の風をよくとらえていたということであり、ストリートにただよう何かをかたちにすることに成功したということだ。「サロン」にアンチしてモードをたちあげたシャネルは、「他のクチュリエにさからって」、ストリートのチカラを理解していたのだ。 

 権利を主張し、法律を盾にして自らの創作を守ることは大事だと思います。昔からそう考える人は多かったのでしょう。でも、シャネルは違いました。コピーされることを成功の証ととらえる勇気があったのです。コピーされて広まっていくことを良しとする。

 ちょっと違うかもしれませんが、「くまモン」はそういう戦略を採っていたそうですね。キャラクター使用料を取らず、いろんなメディアに露出することで知名度を上げていく作戦が功を奏したと。今の時代でも先進的だと捉えられる戦略を、当時のシャネルはやってのけ、世界中で一目置かれるブランドになったのです。

※参考

くまモンの秘密 地方公務員集団が起こしたサプライズ (幻冬舎新書)

くまモンの秘密 地方公務員集団が起こしたサプライズ (幻冬舎新書)

 

 

少量生産は希少性ではない

 著作権の話に絡んできますが、シャネルは少量生産と希少性がイコールで結ばれないことを把握していました。

だが、シャネルはちがっていた。他のクチュリエになくて彼女にあるもの、それは、アメリカであれストリートであれ、マス・マーケットの存在が少量生産を価値化するという認識である。「希少性」とはたんなる少量生産ではなく、あくまで広範な市場を前提にしてはじめて成立する一個の「市場価値」なのであって、偽物が流通すればするほど、本物の価値はせりあがるのだ。 

 偽物が流行るから本物に価値が出る。だからシャネルは真似されることを厭いませんでした。他のクチュリエに先駆けてマスマーケットに目を向けていたシャネルは、マーケットに対してどのような戦略で服を売るかを心得ていました。

 同様の事例が、現代のルイ・ヴィトンにも当てはまると著者は指摘します。

いまや日本人の二人に一人が持っているともいわれてるルイ・ヴィトンだが、あまりの普及ぶりに、近年では「特注」が人気を呼びはじめ、ヴィトン社の方でもこのオーダーメイド・システムに力を入れている。要するに、持っているのが当たり前なほどに普及してしまえば、ブランドをブランドして差別化する希少価値はかぎりなく小さくなるので、今度はオーダーメイドの商品が差別化を担うことになるわけだ。ここでも前提となっている要件は大量普及であって、その事実がオーダーメイドという少量生産を価値化しているのである。 

 津々浦々に普及してしまったらブランドとしての価値を失うのではないか。ルイ・ヴィトンはそれを特注品を作ることによって回避しています。これはきっとブランド品だけに当てはまる話ではなくて、消費者を相手にする商売ならば誰もが考えていかなければいけないことなのではないでしょうか。

新しいライフスタイル

 ここまで、シャネルが成し遂げたことがいかに先進的だったかを取り上げてきましたが、この本ではシャネルの人間性にも多くの紙面が割かれています。シャネルというブランドをここまで押し上げてきた要員のひとつは、ココ・シャネルというひとりの女性が強烈な個性を持ち、それを消費者に訴えかけてきたからだと分析されています。

女が女のためにつくりだしたスタイルーシャネル・ブランドの強みは一にかかってそこにある。先にも触れたとおり、シャネルは自分のライフスタイルをそのままそっくり商品化した初のビジネスウーマンだった。この意味で、シャネル・ブランドの特色は短く要約できる。すなわち、「女による女のためのモード」 

 自分のライフスタイルを商品化して価値が出てしまったのがココ・シャネルという人でした。彼女は時代に先駆けて、女性がバリバリとキャリアを積んでいく、いわゆるバリキャリを体現しました。

 シャネルは自立した女性として社会に広く認知されていました。それが当時では大変珍しかったというのは容易に予想がつきます。だから、彼女は有名になりました。今で言うところの「セレブ」です。

 セレブがプロデュースした服や香水や時計などが売られる時代は今も続いています。あの有名人がプロデュースしたのならと、ファンたちに訴求するのでしょう。シャネルは一番はじめにそれを実行した人でした。

だがここで大切なのは、そうしてシャネルがセレブとしてときめいた事実よりも、シャネルがその名声を自分のブランドの基盤にすえたというのとである。いかなる王侯貴族も顧客にもたずーたとえもっていたとしても、メゾンの威信を顧客の名に頼ることなくーひたすら自分の名声をブランドの起源にすえること、シャネルがそれまでの伝統的ブランドとちがっていたのはまさにこの点であった。つまりシャネルは自分の名を一つの「伝説」に変え、それをもってブランドの根拠にすえたのである。そう、ブランドとは「伝説」にほかならない。口から口へ、時代から時代へと語り継がれる物語・・・・こうして流布される伝説こそブランドをブランドとして認知させる力である。その伝説を維持するのに、十九世紀までは、「伝統」が負っていた力を、二〇世紀は「有名性」が果たすことになる。シャネルはこの新しいブランドのありかたの先駆者であった。 

 有名性が伝説を産み、それがブランドの礎になりました。今でも王室御用達が権威を持つ時代ではありますが、消費者により強く訴えかけるのブランド力を持っているのは、芸能人やスポーツ選手なのではないでしょうか。そういう時代の先駆けがシャネルでした。

 以上見てきたように、シャネルは新しい時代を切り拓いた人です。時代の転換点に立ち、流れを変えた人です。彼女の活躍があったから、今僕らは動きやすく、かつ自分なりのオリジナリティを求めた服装をして、街に繰り出すのでしょう。後世に影響を与え続ける、近代の隠れた偉人の物語でした。ファッションにちょっとでも興味があれば楽しめると思います。Bランクに入れておきます。

 

 

 最近読んで面白かった新書です。宇宙の謎を解くには微小の素粒子の世界を解明する必要があるのだそうです。

【四方八方激闘の予感】書評:岳飛伝 十五 照影の章/北方謙三

岳飛伝 十五 照影の章

岳飛伝 十五 照影の章

 

概要

 水滸伝、楊令伝に続く北方謙三の北方水滸伝第3部。その15巻です。

感想

 戦況が激しく動き出しました。中華を揺るがす出来事が各地で発生し、それらが絡みあって今後の展開が読みにくく、非常に面白くなってきました。北から見ていくと、燕京を睨む形で梁山泊が奪った雄州、兀朮と呼延凌が睨み合う中原、秦容と岳飛と程雲が三すくみの南宋南宋水軍の影が見え隠れする小梁山。日本でも張朔率いる水軍の戦いが発生。そして史実を念頭に置くと注目すべきは蒙古でしょうか。この盛りだくさんな展開を見ると、最近岳飛伝に感じていた物足りなさがウソのようです。

殺しても死なない岳飛

 程雲が岳飛を討とうとして組んだ作戦は本当にお見事でした。「ここ」という一点に賭け、耐え忍んで待っていたところに、まんまと獲物がやってきました。そこまでは完璧でした。ですが、岳飛が死ぬわけないんですよねぇ。程雲は相手が悪かったです。

しかし、自分の敗戦がどれほど大きなものだったのか、とやはり岳飛は考える。軍に戻り、張憲や孟遷を相手に、それは口にできないことだった。負けは、ひとりで嚙みしめる。これまでに、どれほどの負けを噛みしめてきたのか、と岳飛は思った。 

 何度も何度も負けるということが、他の武将にはない岳飛アイデンティティな気がします。こんなに負けている男って他にいましたっけ。打ちのめされてもそこから立ち上がる芯の強さが、岳飛の武器なのだと思います。一方で今回は岳飛の弱さも明らかになりました。

虫のいいやつだな。結局は、崔如殿には捨てられたくないし、チンヨウとも続けたい、と言っているのだろう。しかしなあ、岳飛。それが男だよ。おろおろしているおとまえを見ると、からかう気もなくなった。図太くなれよ。程雲など、おまえは殺してもしなないやつだ、と思っているだろう。それぐらい、図太くなるんだよ。女とは、時には戦になる。勝ったり負けたりさ。それでも殺されても死ななければいい。  

 不倫がバレてオロオロする岳飛。こんなシーン珍しいですね。そもそも不倫というものが北方水滸伝において珍しい気がします。それを主人公にやらせてしまうのだから、北方さんは面白いことを考えます。岳飛の素朴なキャラがよく発揮されています。

 岳飛の奥さんである崔如はずっと南方にいるわけですから、よっぽどのことがない限り不倫がバレることはないのだとは思います。でも、不倫がバレた時の二人の反応が見てみたい。もしくは、岳飛はバレていないと思っていても崔如には何もかもお見通しだったりするのかも。楽しみなことが増えました。

金の命運を握るのは

 金国の命運を握るのは兀朮と海陵王の関係性でしょうか。この関係性もなかなか面白いなと思って注目しています。

生きているから、こわいのだ。死ねばいい。こわいのは死ぬと思うからで、死んでいれば死ぬと思わん。最初の一撃だ。それでおまえは、いろいろなものを脱ぎ捨てられる。 

 なんだかブラック企業の創業者みたいな発言ですが、海陵王が一端の男になるかどうかは、今後の展開を左右しそうです。肝心なところで彼が腰砕けであれば、兀朮の苦労は倍増ですからね。

「手が届いても、頭をぽかりとやるぐらいで」「あの海陵王とかいうやつが逃げる時、いつでも首を奪れる隙があるのですよ。なりふり構わず、逃げるからですかね。俺も、兜を飛ばすぐらいにしておきます」 

 梁山泊遊撃隊の面々は海陵王を舐めきっています。「頭をぽかりとやるぐらいで」なんてかわいいセリフを聞けるとはちょっと驚きました。さて、海陵王は男を見せることはできるでしょうか。

 個人的に一番気になるのは秦容の動きです。今は南宋領内で臨安府を睨む位置にいますが、そこは南下してくる金軍にも対応できる場所でもあります。岳飛南宋と秦容の三者が絡み合う状態から、さらに金まで巻き込むとなるともう混戦です。いったい彼はどういう作戦をとるでしょうか。楽しみですその他、話を覚えておくためのメモ。

  • 韓順とショウシュウザイの旅が終わる。不意に現れたショウケンザイに、約束の時を守るように言われ、死ぬ気で走る。そして、韓順ついたとたん、顧大嫂が亡くなる 。
  • 南宋軍のライキョウ、コウレイが指揮する大群を秦容が撃破。二人は南宋軍から退役することになる。
  • 韓成が西遼の丞相になる。韓順は北の部族のところへ行き、飛脚網を広げる仕事をする。
  • ヘイセイセイの協力もあり、張朔は南宋水軍40艘を壊滅させる。陸に上がったときにリュウコウギョクが梁山泊水軍の将校を切り倒し、張朔を怒らせる。 
  • 胡土児に何度も命を救われた少年は徒空と命名される 。
  • 軍のこまごまとしたことを取り仕切っていたサイランを、岳飛は将校にしてショウキの下に入れる。息子だからといって、特別扱いはやめる。 

 

岳飛伝シリーズ。 

 

【激動の父の人生へタイムスリップ】書評:地下鉄に乗って/浅田次郎

地下鉄に乗って (講談社文庫)

地下鉄に乗って (講談社文庫)

 

概要

 浅田次郎さんが吉川英治文学新人賞を受賞した作品です。地下鉄がタイムマシンとなり、兄・父・愛人の人生を追憶することになる主人公真次。激動の時代を生き抜いてきた父の人生をメインに、今まで知ることのなかった因縁が明らかになっていきます。

おすすめポイント

 昭和の東京の雰囲気を豊かに伝える物語でした。昔のメトロの描写などは、懐かしむことのできる人もいるのでしょう。それができない僕のような人間にとっても、自分の親の人生を辿るとどのような気持ちになるか、考えさせられる作品でした。

感想

東京の人々と共に生きてきた地下鉄の生き様

 この物語は地下鉄から始まり、地下鉄で終わります。最初の地下鉄が東京を走ったのは1927年のことだったそうです。戦前・戦中・戦後と時代が流れても運行し続け、数えきれない人が利用してきました。浅田さんは東京の生まれだそうなので、地下鉄にはちょっと思い入れがあるのかな、なんて考えながら読んでいました。

ふと、こんなことを考えた。人生の何割かを東京の地下で暮らしてきたのは、何も自分ひとりではあるまい。行き交う人々はみな、人生の何分の一かに相当する時間を、地下鉄の中で過ごしているのだ。夏は涼しく、冬は暖かい、網の目のように張りめぐらされたこの涯もない空間の中で、誰もが重苦しい愛憎を胸に抱える。 

 地下鉄という閉鎖的な空間には、あらゆる時代の利用者の想いが染み込んでいる。そんな想像を巡らせながら僕も読んでいました。例えば戦争中は赤紙をもらって軍に招集された青年が乗って行く。もう、帰ることはないかもしれないと思いながら。

胸がいっぱいになったのは、そんなことじゃなくって、私たちが毎日何も考えずに乗っている地下鉄が、こんなふうに人の命を載せていた時代もあるんだって、ある古い銀座線はそんなことおくびにも出さないけれど、死んで行く若者たちを何千人も、何万人も、黙って送り続けていたんだって、そう思ったんです。 

 ただの移動手段だと思って気にも留めない生活をするのは、もしかしたらもったいないのかもしれませんね。若き兵隊の怨念が住み着いていると考えるとホラーですが。

鮮やかに書き分けられる時代ごとの色

 真次は物語の中で数回に渡ってタイムスリップを経験します。時間旅行の行き先は兄の命日だったり、父がまだ小さいころだったり。その時々の東京の様子が細かく描写されていました。戦後の東京オリンピックが開催されるきらびやか雰囲気、戦中の配給が滞って闇市で人が上をしのいでいる雰囲気、戦前の好景気に湧いた華やかな雰囲気などなど。それらは独特の色を持っているように僕は感じられました。戦後はネオンの色、戦中は灰色の駅とオレンジの電球に照らされた闇市の色、戦前はモダンなレンガ造りの建物の色。戦闘地域の真っただ中の満州に飛んでいるときは、白黒の世界が浮かびました。

 時間が流れて今の時代が過去になったとき、何色で表現されるのでしょうか。パソコンやスマホのディスプレイの青白い光が、今を代表する色になるのかもしれませんね。

兄と血縁と運命

 タイムトラベルは、真次に過酷な運命を突きつけます。

そのとき真次が考えたものは、自分の血族をめぐる恐ろしい必然だった。すべては揺るぎようがない、どんな偶然も関与することのない、この結果しかないことなのだと思った。運命というものの正体を、真次は確かにその目で見た。少なくとも、家族の誰ひとりとして、愛憎の法則に逆らった者はいない。家族は愛し合っていた。とりわけ、聡明な兄は誰よりも父を理解し、尊敬し、かつ愛していたのだと思った。それでも、この結末しかなかった。 

 過去に干渉できるというのは運命を変えられるということです。タイムスリップが絡むSFでは、それが行われることが多いです。しかしここで真次は、「すべては揺るぎようがない、どんな偶然も関与することのない、この結果しかないことなのだと思った」と言っています。タイムスリップを意識して書かれたであろうこの一節は、運命を変えさせまいと縛る血縁の強さを語っています。

 言い方が悪いですが兄はもう死ぬしかなかったということでしょう。何度真次がタイムスリップしても、帰ってきた現在に兄はいませんでした。

永遠に未完な時代の闇を、真次はさまよっていた。昭和三十九年の冬ーそれは一面を焼き尽くされていたあの時代から、わずか十九年しか経ってはいないのだ。風景がひどく脆弱に、心もとなく見えるのは、それらすべてが半年後に控えた壮大な復活の儀式に向かって、あわただしく準備されていたからにちがいない。すさまじい勢いで甦った世界の、どうともつなぎ合わさらぬ断層に、兄は落ちて行ったのだと思った。

 誰も悪くないと、強いて言うなら時代が悪かったと、そういうことにしたいのではないでしょうか。兄が不憫だなあと思いました。そういえば、兄の本当の父親は全く登場しなかったですね。

みち子との禁じられた恋

 みち子と真次の隠された因縁。予想外の展開に驚きました。なんという運命。なんという巡り合わせ。こんな真実を知らずして、二人は出会っていたとは。しかし釈然としない一説があります。

みち子は真次の母の希いを、まるで姑の意思に従う嫁のように、忍耐づよく守り続けたにちがいなかった。夜ごと来るはずのない男の食膳をあつらえ、泣きながらそれを捨て、そして真次に対しては常に冷淡な、倦み果てた女の仮面を被り続けてきたのだった。愛の言葉を封印されたまま二人の因果を知ったみち子の狂おしさを思うと、真次にはもう何ひとつとして口にする言葉が思い浮かばなかった。 

 一方的にみち子は知っているでしょうが、みち子は真次の母とは面識がないはずです。上の文はみち子が背負った非常に哀しい運命を解説するものですが、なぜみち子が真次の母の願いを守り続けたと書いてあるのか僕にはわかりません。きっとどこかで伏線を読み落としたのかな。

 みち子と母の感動的な会話シーンもちょっと腑に落ちない。

おかあさんとこの人とを、秤にかけてもいいですか。私を産んでくれたおかあさんの幸せと、私を愛したこの人の幸せの、どっちかを選べって言われたら…

 みち子は「天秤にかけてもいいか」と実の母に問います。真次を選ぶことが母を捨てることに直接つながるのでしょうか。みち子と真次が腹違いの兄弟であることを知りながら一緒になることは、自らの血を捨てるということであって、それがつまり母への裏切りということになるのでしょうか。よくわかりません。

あのね、お嬢さん。親っていうのは、自分の幸せを子どもに望んだりはしないものよ。そんなこと決まってるさ。好きな人を幸せにしてやりな。

 これは名セリフではあるのですが、上で疑問がいっぱい浮かんだ僕にはあまり刺さりませんでした。真次にはきっぱりとした態度をとっていたみち子ですが、やっぱり真次のことをあきらめきれなくて、禁じられた恋に突き進もうかと迷っていたということですかね。うーん。なんか納得できないな。

何のためのタイムスリップだったのか

 最大の疑問はこれ。誰がなんのために、真次をタイムスリップさせたのか。大抵、こういう話には事件の黒幕がいて、そいつの望むように主人公は踊らされますよね。でも、この物語ではそいつの正体は明示されませんでした。まるで自然現象かのようにタイムスリップが扱われています。

 怪しいのはやはり「のっぺい」ですかね。

病床で、あの方の人生を知りたいといちずに念じておったら、すべて知ることができた。ふしぎなこともあるものだー君も、みてきたのだろう?

 のっぺいもタイムスリップして小沼佐吉の生涯を追憶してきたようです。でも、この言い方だとのっぺいが真次のタイムスリップを操っていたわけではなさそうですね。僕は序盤に登場したこの一節が気になっています。

時間というものの蓋然性について考える。母を見るにつけ、時間というものはそれほど絶対的に、着実に流れているとは思えない。記憶という暗い流れの中で、孤独な人間を乗せて行きつ戻りつしている小舟が、時間というものの状態だと、真次は思った。だから正確には、時間を共有している人間などひとりもいないのだ。 

 時間というものは、実は他人と共有できる絶対的な軸ではない。誰もが記憶という流れの中を自由自在に行ったり来たりできる。それをたまたま真次とのっぺいは経験しただけ・・・。エキセントリックですね。とてもじゃないけど時間の概念をぶち壊す物語ではない気がしますが、なんだかここが引っかかっているのです。考え過ぎかな。

 兄と愛人の悲しすぎる運命を知って、うちひしがれるかと思いきやちょっとだけ元気になる真次。父のたくましい姿を知ったからでしょうか。

たちまち真次は、この数日間に見てきた小沼佐吉の肖像を胸の中に並べた。それは、おびただしい苦労のひとつひとつが、克明に相をなした男の顔だった。そしておそらく、有史以来もっとも過酷な時代を生き残った男の顔だ。父はいつでも時代に立ち向かってきたのだと思った。 

 地下鉄が走るように、父が生き抜いてきたように、自分も一生懸命生きようと。そんなことを思ったのでしょうか。佐吉と真次はさんざん似ていると書かれていますから、思考回路の根本は大体同じだったりして。こういう風に父の人生を直接見る機会があったら、みなさんは何を考えると思いますか。なにか嫌なところがある父であっても許せる気分になるでしょうか。想像つかないですね。

 

 

 

 こちらは 浅田次郎さんが直木賞を受賞した作品。珠玉の名作短編集でした。

 

【人付き合いの絶望と希望】書評:対岸の彼女/角田光代

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

概要

 角田光代さんが直木賞を受賞した作品です。一児の母である小夜子と女社長の葵の交友を描きます。小夜子が主人公の現在と、葵の高校時代の過去を行き来しながら物語が進みます。

おすすめポイント

 学校という閉鎖的な空間に倦んでいたあのころ、そして大人になった今も、他人との距離の保ち方は難しい。人と交わることの苦しさをくっきり抉り出しつつも、ラストで少しだけ希望を見せてくれます。

感想

 この物語は一風変わった時間軸を持って進んでいきます。主人公は小夜子と葵。彼女たちは同い年。娘を持つ小夜子は葵の経営する会社で働くことになります。主婦と女社長。引っ込み思案な小夜子と、快活な葵。境遇も性格も全く違う二人の人生は現在において交差します。

 一方で現在と並行して語られる葵の過去の物語には、引っ込み思案な葵と快活なナナコが登場します。読者はここで角田さんの仕掛けた挑発に乗らざるを得ません。一体、現在と過去の間で、葵に何があったのか。ナナコはどうなってしまったのか。その謎が、否が応でも気になってしまうのです。

 謎を紐解く旅は、人類普遍の悩みである人付き合いのわずらわしさというテーマを背景に据えて進んでいきます。学生のころも、大人になったいまでも、小夜子と葵は悩み、そして考え続けます。

スクールカースト

 葵の過去編は中学生、高校生と進んでいきます。いじめを苦に引っ越しをした葵は、周りをうかがいながら、決していじめの標的にされないように、細心の注意を払って学校に通います。クラスを流れる不穏な雰囲気、それを敏感にとらえて息をひそめる葵。それとは対照的に、スクールカーストなどまったく意に介さないナナコ。

結局さ、のっぺりしすぎてるんだよ、とナナコは言っていた。何もかもがのっぺりしてる。毎日、光景、生活、成績、全部のっぺりしてるから、いらいらして、カーストみたいな理不尽な順位をつけて優位に立ったつもりにならなきゃ、みんなやっていられないんじゃないかな。 

 大抵の人が経験したであろうスクールカースト。あの理不尽な階層化はなぜ起こるのか疑問に感じる人は多いでしょう。あのときの息苦しさの中で、彼女たちは彼女たちなりに考えています。

いじめをするほど幼稚ではないが、けれど何かむしゃくしゃする、人を見下し順列をつけ優位に立ちたい。そんな気分が、どこにも出口を見つけられないまま鬱積していっているように、葵には感じられた。 

 彼女たちの持っているスクールカースト観。葵はなんとか仲間を作って最下層に転落しないように心がけ、割り切れない思いを抱えたまま学生生活を送っていきます。ここで注目したいのが下のセリフ。これは現在の時間軸において、葵が小夜子に言ったセリフです。過去に起きた出来事を僕ら読者は知っているからこそ、この言葉の重みが分かるのです。

お友だちがいないと世界が終わる、って感じ、ない?友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子、暗い子はいけない子。そんなふうに、だれかに思いこまされてんだよね。私もずっとそう思ってた。世代とかじゃないのかな、世界の共通概念なのかな。 

 スクールカーストに悩んでいた過去と、こんなセリフを言えるようになった現在。時を経て、葵の価値観は大きく変化したことが見て取れます。

私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね。

 葵にとって「ひとりでいてもこわくないと思わせてくれるなにか」は何だったのだろう。葵の過去を同時並行で追っている読者は気になります。ナナコの存在がこれにあたるのかな、なんていう風に。こんなに強いセリフを吐いている葵も、起業した当初はいっぱいいっぱいになっていました。

人と関わることに疲れている自分がいた。人を雇い彼らとともに働くことは、できることできないことを単純に分散させるのとはわけが違った。適当に仕事を怠け不満ばかり並べたてる。笑顔で近づいてきて、仕事を横取りしていく。自分の欠点は棚に上げ、こちらの非ばかり言い募る。葵の過去を 何も知らないはずの人々は、いつのまにかそれをどこかで小耳に挟み、奇妙な好奇心で立ち入ってくる。何人もの人がやってきては去り、やってきては去る。私のできないことのなかに、人と関わるという基本的なことも含まれているのではないか。そう思いついて葵はぞっとした。 

 人と関わることのむずかしさ。これは小夜子も悩むテーマであり、この作品を貫くテーマでもあると僕は感じました。スクールカーストのころから変わらない苦手意識。これを、払しょくできる日はくるのか。非情に難しい問題であることは間違いありません。その永遠のテーマに対する答えとして小夜子を主人公とする現在が描かれているのだと思います。

年を重ねることの意味

 物語の終盤、小夜子は年を重ねて大人になる意味について思いを巡らせます。そして、人付き合いに対する自分なりの答えを得ます。

なんのために私たちは歳を重ねるのだろう。大きな窓の外、葉を落とした銀杏並木を眺め小夜子はぼんやり考える。園児を待つあいだのお茶のお誘いを、忙しいからと数度断れば、元々同じ幼稚園に子どもを通わせているわけではないのだし、彼女たちはもう誘ってこなくなるだろう。けれど そんなことでもう自分は傷ついたりしない。高校生のように暇じゃないのだ。自分にも、彼女たちにも、それぞれの家庭があり生活がある。 

 「高校生のように暇じゃない」というのは、退屈がスクールカーストを生んだと考察したナナコの言葉に重なります。大人は忙しいから、カーストなんて作っている暇がないんだと。

なんのために歳を重ねたのか。人と関わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げこむためだろうか。銀行に用事がある、子どもを迎えにいかなきゃならない、食事の支度をしなくちゃならない、そう口にして、家のドアをぱたんと閉めるためだろうか。そんなことを思う。 

 忙しさは人付き合いを避けるための言い訳なのか。いや、そんなことはない。そんなことはないと言ってほしい。僕はそう思いながら読んでいました。そして次の文章でようやく小夜子は答えを悟ります。

その思いつきに顔を輝かせ、早くも献立を考えなじめる妻を見ていて、小夜子はようやくわかった気がした。なぜ私たちは歳を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いて行くためだ。 

 小夜子が気づいた真実はシンプル。出会うために、僕らは年をとっていく。この文章を読んだとき、鳥肌が立ちました。なぜなら過去編の最後で、ナナコと別れざるをえなかった葵の言葉を思い出したからです。

おとうさん、なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。父の言葉にうなずきながら葵は心のなかで叫ぶように言った。何かを選んだつもりになっても、ただ空をつかんでいるだけ。自分の思う方向に、自分の足を踏み出すこともできない。ねえおとうさん。もしどこかでナナコが ひどく傷ついて泣いていたら、あたしには何ができる?駆けつけてやることも、懐中電灯で合図を送ることもできないじゃないか。なんのためにあたしたちは大人になるの?大人になれば自分で何かを選べるようになるの?大切だと思う人を失うことなく、いきたいと思う方向に、まっすぐ足を踏み出せるの? 

 高校生の葵は何もできない無力感を嘆きました。「大人になれば自分で何かを選べるようなるの?」と。一方で大人になった小夜子は真実に気づきました。年を重ねることは「出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いて行くためだ。 」なのです。大人になるにつれ、僕らは窮屈になると思いがちです。でも、角田さんはそうじゃないと言ってくれているように感じました。大人になったからこそ、出会いを選び、自分の人生を思うがままに生きられる。

二人は飛び跳ねながら少し先を指差す。指の先を目で追うと、川に架かる橋がある。二人の女子高生は小夜子に手招きし、橋に向かって走り出す。対岸の彼女たちを追うように、橋を目指し小夜子も制服の裾を躍らせて走る。川は空を映して、静かに流れている。 

 小夜子は川を渡り、対岸の彼女たちに会いに行くことを決めました。そうやって、僕らはきっと自分の人生を選んでいける。序盤は暗いトーンで物語が進んでいきましたが、最後は前向きな気分になりました。いろんなことを現実的に考えさせられる素晴らしい一冊です。Bランクに入れます。

 

 

Kindle版 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

 

角田さんの別の作品。誘拐した女の子を育てる女性の生涯を描きます。

 

【死の迷宮の謎】書評:螺鈿迷宮/海堂尊

螺鈿迷宮 上 (角川文庫)

螺鈿迷宮 上 (角川文庫)

 
螺鈿迷宮 下 (角川文庫)

螺鈿迷宮 下 (角川文庫)

 

概要

 「チームバチスタの栄光」から始まる海堂尊さんの桜宮サーガ。今作の主人公は田口ではなく医学生の天馬大吉。時系列的には「ジェネラル・ルージュの凱旋」と「イノセント・ゲリラの祝祭」の間の出来事です。

おすすめポイント

 外伝だと思って侮るなかれ。重厚に組み上げた螺鈿迷宮の謎が読者を待ち受けます。天馬は果たして真相を解明できるでしょうか。

感想

死と女と螺鈿

 医療は死に向かう生物を生の側に引き戻す作業です。だから医療小説であるこのシリーズでは生と死が交錯する様子が何度も描かれていますが、この作品では死の側が強く印象に残りました。物語の舞台である桜宮病院は終末医療に関して先進的な取り組みを実施していて、患者を働かせることで人手不足を補うと同時に生きがいを与えるというシステムができあがっています。ひょんなことからこの病院に潜入調査をすることになった天馬は、次第にこのシステムの闇の部分を見ることになります。

意地悪な見方をすれば、患者の余剰労働力の搾取だ。ただし病院も税金等を支払うだろうから、一概に搾取とは言い切れなさそうだが。見る角度で様変わりする碧翠院は、まるで螺鈿細工のようだ。 

 天馬が潜入してから不自然に急増する患者の死。皮膚科医を装って白鳥が潜り込んできて、事態は動き出します。謎を散らかす部分が長くて少し焦れったかったですが、終盤の怒涛の流れはお見事でした。非常にスリリングでした。

 主人公はいつもの田口ではないですが、天馬もキャラがはっきりしていて彼に共感できます。ふわふわした根無し草体質で、弱った子犬のように女性たちにかわいがってもらえる存在。幼なじみの葉子、桜宮病院を仕切る小百合とすみれの双子姉妹、そして氷姫こと姫宮ら物語の骨格を作っているのは女性であり、彼女らと天馬の距離感がそれぞれに描かれていきます。

 冒頭で天馬が書いた原稿は修辞が効きすぎていると葉子にダメ出しされるシーンがあります。そこと繋がっているのかは定かではないですが、今作はやたらと装飾された言葉で物語が綴られていきます。メインテーマに据えられた終末医療と、ハーレム状態の天馬のミスマッチが、綺麗に彩られた文章で浮かび上がります。アンバランスで独特な世界でした。

銀獅子の遺言

 桜宮病院のボスである桜宮巌雄は強い男でした。このシリーズにおいて今まで無敵を誇ってきた火喰い鳥白鳥が、負けを認めるとは新鮮で驚きでした。また、巌雄から医学の真髄を見せつけられた天馬が、今後どのような医師になっていくかも楽しみです。

おい、そこのできそこないの医学生、これが最後だから、耳をかっぽじいてよく聞けよ。死を学べ。死体の声に耳を澄ませ。ひとりひとりの患者の死に、きちんと向き合い続けてさえいれば、いつか必ず立派な医者になれる。 

 天馬は輝天炎上にて再登場しているらしいので機会があれば読んでみたいと思います。また、白鳥もアドバイスをもらっていました。

大きなことをやりとげるなら、薄暗がりに身を潜めろ。ワシには桜宮の血脈にこてんぱんにされたヌシの、未来の泣きべそ顔が見える。そうなりたくなければ鉈になれ。剃刀ではダメだ。これでもワシは、ヌシには期待しとるんだ。

 なんでカミソリではダメなのでしょう。なぜ鉈なのでしょう。よくわかりませんが、今後の伏線になっているのかな?注意しながら以降の作品も読みたいと思います。

 

 

チームバチスタシリーズ