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本と本の意外な「つながり」ってありますよね

【ファッションの歴史を変えた女】書評:シャネル 最強ブランドの秘密/山田登世子

シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)

シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)

 

概要

 創業者ココ・シャネルの人生を振り返りながら、ブランドとしてのシャネルの歴史を紐解いていきます。シャネル自身の言葉をふんだんに引用し、彼女の持つ魅力に迫る一冊です。

おすすめポイント

 シャネル自身の強烈なキャラクターと時代の大きなうねりを軸に展開される解説は、最後まで非常に面白かったです。遠い過去の人の話ではありません。最終的に今僕らが着ている服にも繋がってくると考えると身近に感じられます。

感想

 僕らは毎日服を着ますから、誰しもが少なからずファッションに気を使います。でも、ファッションの歴史を知っている人は少ないのではないかと僕は思います。僕が来ている服は、なぜこんな形なのだろう、どのような経緯でこの形に収まったのだろう。そんなことを考えながら服を着たことなど一度もありませんでした。

 この本はファッションの歴史を語るものではありません。単に、シャネルという一つのブランドが生まれた経緯、そして有名になった経緯を綴った本です。しかし、シャネルの創業者ココ・シャネルの人生を追う内に、ファッションには長い歴史があって、その流れを大きく変えた女性こそがココ・シャネルなのだと知ることになります。二度の世界大戦のさなかにあって、シャネルが成し遂げたことは歴史の一部になっているといっても過言ではないと思います。そういう意味で、この本を読むとファッションの歴史を知ることになります。

 ただ無機質にシャネルの功績を述べていく本だったとしたら、退屈で放り投げてしまっていたかもしれません。この本は歴史の大きなうねりの中にたたずむ一人の女性としてのココ・シャネルをきちんと描いた本なのだと思いました。だから、人間味をすごく感じます。

 僕の心に残ったポイントをいくつか挙げていこうと思います。

「おしゃれ」の再定義

 シャネルは「おしゃれ」とは何か、ということを再定義した人でした。というのも、シャネルが服を作って売り始めた当初、おしゃれは貴族のためのものでした。限られた金持ちが己の財力をアピールするためだけに豪華なドレスが作られ、キラキラの宝石で着飾っていたのです。

 この現状を嘆き、シャネルは偽物の宝石で作られたアクセサリーを販売します。

わたしがイミテーション・ジュエリーをつくったのは、ジュエリーを廃絶するためだった。「廃絶」という語は、核兵器廃絶というようなときに使う語である。この皆殺しの天使は、金目の宝石を「廃絶する」ために偽物をつくりだしたのだ。まさにそれは革命の名に値する。なぜなら、こうしてはじめて、「おしゃれ」と「金」が同義のものでなくなり、エレガンスが財力から独立したものとなったからだ。シャネルとともに、ようやくおしゃれはひとりひとりの「センスの良さ」の問題になったのである。 

 シャネルは貧しい生まれです。シャネルは強い反骨精神を持って、従来のおしゃれをぶち壊しにかかります。自分が嫌っている貴金属のアクセサリーを流行遅れにするために、彼女は知恵を絞り、イミテーションジュエリーを普及させました。もちろんこれ以外にも彼女が新しく流行らせたものはありますが、この例が一番端的にシャネルの成し遂げたことを表していると思います。

自分の楽しみのために身につける宝石。金と無関係な戯れ。財力から独立して、誰もが享受できる「おしゃれ」がようやくここに始まったのである。こうしてみると、モダンなおしゃれの歴史は、実は驚くほどに日が浅い。贅沢はシャネルの登場を待ってようやく財力から離床し、ひとりひとりのセンスと創意にかかるものになったのである。 

 誰もがおしゃれを楽しめる時代。それはシャネルが活躍した1920年代からようやくスタートしたのです。そろそろやっと100年が経つところ。僕らはシャネルの功績の上に、好きな服を好きなように着られる時代を生きているのです。

ファッションと匿名性、著作権、そしてビジネス

 シャネルはコピーを許しました。シャネル以前のクチュリエ(服飾デザイナー)は断固としてオリジナリティを大事にし、著作権の保護を訴えていたのにも関わらずです。これはファッションの匿名性という観点で議論されます。

そう、シャネルにとって、ストリートから生まれるモードは「匿名のマス」のそれであった。シャネルはそれを明晰に自覚していた。というより、自覚せざるをえなかった。サロンのモードしか眼中にない他のクチュリエたちは、匿名性というストリート・ファションの精神をまったく理解できなかったからである。ここにもまた、シャネルと同年代のクチュリエたちを分けへだてる決定的な分岐点がある。シャネルは「既成のモード界」をむこうにまわして、ただ一人、デザインのコピーを容認し、オリジナルの権利を護ろうとしなかった。 

 ファッションのオリジナリティを護るという行為を、僕は上手く想像することができません。ファッションは流行りを追いかけるものであって、真似をするとか真似をしないとかの問題ではないと思っているからです。自分が生み出した新しい着こなしの著作権を求める人なんて今の時代にはいません。僕らの感覚は、当時シャネルが主張した考えに近いと言っていいでしょう。

引用されるのは「感嘆と愛のしるし」。まさにシャネルにとって、コピーとは広く大衆によって愛され、認められること以外の何ものでもなかったのである。コピーに憤激したポワレや、彼に同調したオートクチュール協会とはまったく逆に、シャネルとってコピーは「成功のしるし」以外の何ものでもなかった。ストリートが自分の作品を盗作したとしたら、それは自分の作品が時代の風をよくとらえていたということであり、ストリートにただよう何かをかたちにすることに成功したということだ。「サロン」にアンチしてモードをたちあげたシャネルは、「他のクチュリエにさからって」、ストリートのチカラを理解していたのだ。 

 権利を主張し、法律を盾にして自らの創作を守ることは大事だと思います。昔からそう考える人は多かったのでしょう。でも、シャネルは違いました。コピーされることを成功の証ととらえる勇気があったのです。コピーされて広まっていくことを良しとする。

 ちょっと違うかもしれませんが、「くまモン」はそういう戦略を採っていたそうですね。キャラクター使用料を取らず、いろんなメディアに露出することで知名度を上げていく作戦が功を奏したと。今の時代でも先進的だと捉えられる戦略を、当時のシャネルはやってのけ、世界中で一目置かれるブランドになったのです。

※参考

くまモンの秘密 地方公務員集団が起こしたサプライズ (幻冬舎新書)

くまモンの秘密 地方公務員集団が起こしたサプライズ (幻冬舎新書)

 

 

少量生産は希少性ではない

 著作権の話に絡んできますが、シャネルは少量生産と希少性がイコールで結ばれないことを把握していました。

だが、シャネルはちがっていた。他のクチュリエになくて彼女にあるもの、それは、アメリカであれストリートであれ、マス・マーケットの存在が少量生産を価値化するという認識である。「希少性」とはたんなる少量生産ではなく、あくまで広範な市場を前提にしてはじめて成立する一個の「市場価値」なのであって、偽物が流通すればするほど、本物の価値はせりあがるのだ。 

 偽物が流行るから本物に価値が出る。だからシャネルは真似されることを厭いませんでした。他のクチュリエに先駆けてマスマーケットに目を向けていたシャネルは、マーケットに対してどのような戦略で服を売るかを心得ていました。

 同様の事例が、現代のルイ・ヴィトンにも当てはまると著者は指摘します。

いまや日本人の二人に一人が持っているともいわれてるルイ・ヴィトンだが、あまりの普及ぶりに、近年では「特注」が人気を呼びはじめ、ヴィトン社の方でもこのオーダーメイド・システムに力を入れている。要するに、持っているのが当たり前なほどに普及してしまえば、ブランドをブランドして差別化する希少価値はかぎりなく小さくなるので、今度はオーダーメイドの商品が差別化を担うことになるわけだ。ここでも前提となっている要件は大量普及であって、その事実がオーダーメイドという少量生産を価値化しているのである。 

 津々浦々に普及してしまったらブランドとしての価値を失うのではないか。ルイ・ヴィトンはそれを特注品を作ることによって回避しています。これはきっとブランド品だけに当てはまる話ではなくて、消費者を相手にする商売ならば誰もが考えていかなければいけないことなのではないでしょうか。

新しいライフスタイル

 ここまで、シャネルが成し遂げたことがいかに先進的だったかを取り上げてきましたが、この本ではシャネルの人間性にも多くの紙面が割かれています。シャネルというブランドをここまで押し上げてきた要員のひとつは、ココ・シャネルというひとりの女性が強烈な個性を持ち、それを消費者に訴えかけてきたからだと分析されています。

女が女のためにつくりだしたスタイルーシャネル・ブランドの強みは一にかかってそこにある。先にも触れたとおり、シャネルは自分のライフスタイルをそのままそっくり商品化した初のビジネスウーマンだった。この意味で、シャネル・ブランドの特色は短く要約できる。すなわち、「女による女のためのモード」 

 自分のライフスタイルを商品化して価値が出てしまったのがココ・シャネルという人でした。彼女は時代に先駆けて、女性がバリバリとキャリアを積んでいく、いわゆるバリキャリを体現しました。

 シャネルは自立した女性として社会に広く認知されていました。それが当時では大変珍しかったというのは容易に予想がつきます。だから、彼女は有名になりました。今で言うところの「セレブ」です。

 セレブがプロデュースした服や香水や時計などが売られる時代は今も続いています。あの有名人がプロデュースしたのならと、ファンたちに訴求するのでしょう。シャネルは一番はじめにそれを実行した人でした。

だがここで大切なのは、そうしてシャネルがセレブとしてときめいた事実よりも、シャネルがその名声を自分のブランドの基盤にすえたというのとである。いかなる王侯貴族も顧客にもたずーたとえもっていたとしても、メゾンの威信を顧客の名に頼ることなくーひたすら自分の名声をブランドの起源にすえること、シャネルがそれまでの伝統的ブランドとちがっていたのはまさにこの点であった。つまりシャネルは自分の名を一つの「伝説」に変え、それをもってブランドの根拠にすえたのである。そう、ブランドとは「伝説」にほかならない。口から口へ、時代から時代へと語り継がれる物語・・・・こうして流布される伝説こそブランドをブランドとして認知させる力である。その伝説を維持するのに、十九世紀までは、「伝統」が負っていた力を、二〇世紀は「有名性」が果たすことになる。シャネルはこの新しいブランドのありかたの先駆者であった。 

 有名性が伝説を産み、それがブランドの礎になりました。今でも王室御用達が権威を持つ時代ではありますが、消費者により強く訴えかけるのブランド力を持っているのは、芸能人やスポーツ選手なのではないでしょうか。そういう時代の先駆けがシャネルでした。

 以上見てきたように、シャネルは新しい時代を切り拓いた人です。時代の転換点に立ち、流れを変えた人です。彼女の活躍があったから、今僕らは動きやすく、かつ自分なりのオリジナリティを求めた服装をして、街に繰り出すのでしょう。後世に影響を与え続ける、近代の隠れた偉人の物語でした。ファッションにちょっとでも興味があれば楽しめると思います。Bランクに入れておきます。

 

 

 最近読んで面白かった新書です。宇宙の謎を解くには微小の素粒子の世界を解明する必要があるのだそうです。

【四方八方激闘の予感】書評:岳飛伝 十五 照影の章/北方謙三

岳飛伝 十五 照影の章

岳飛伝 十五 照影の章

 

概要

 水滸伝、楊令伝に続く北方謙三の北方水滸伝第3部。その15巻です。

感想

 戦況が激しく動き出しました。中華を揺るがす出来事が各地で発生し、それらが絡みあって今後の展開が読みにくく、非常に面白くなってきました。北から見ていくと、燕京を睨む形で梁山泊が奪った雄州、兀朮と呼延凌が睨み合う中原、秦容と岳飛と程雲が三すくみの南宋南宋水軍の影が見え隠れする小梁山。日本でも張朔率いる水軍の戦いが発生。そして史実を念頭に置くと注目すべきは蒙古でしょうか。この盛りだくさんな展開を見ると、最近岳飛伝に感じていた物足りなさがウソのようです。

殺しても死なない岳飛

 程雲が岳飛を討とうとして組んだ作戦は本当にお見事でした。「ここ」という一点に賭け、耐え忍んで待っていたところに、まんまと獲物がやってきました。そこまでは完璧でした。ですが、岳飛が死ぬわけないんですよねぇ。程雲は相手が悪かったです。

しかし、自分の敗戦がどれほど大きなものだったのか、とやはり岳飛は考える。軍に戻り、張憲や孟遷を相手に、それは口にできないことだった。負けは、ひとりで嚙みしめる。これまでに、どれほどの負けを噛みしめてきたのか、と岳飛は思った。 

 何度も何度も負けるということが、他の武将にはない岳飛アイデンティティな気がします。こんなに負けている男って他にいましたっけ。打ちのめされてもそこから立ち上がる芯の強さが、岳飛の武器なのだと思います。一方で今回は岳飛の弱さも明らかになりました。

虫のいいやつだな。結局は、崔如殿には捨てられたくないし、チンヨウとも続けたい、と言っているのだろう。しかしなあ、岳飛。それが男だよ。おろおろしているおとまえを見ると、からかう気もなくなった。図太くなれよ。程雲など、おまえは殺してもしなないやつだ、と思っているだろう。それぐらい、図太くなるんだよ。女とは、時には戦になる。勝ったり負けたりさ。それでも殺されても死ななければいい。  

 不倫がバレてオロオロする岳飛。こんなシーン珍しいですね。そもそも不倫というものが北方水滸伝において珍しい気がします。それを主人公にやらせてしまうのだから、北方さんは面白いことを考えます。岳飛の素朴なキャラがよく発揮されています。

 岳飛の奥さんである崔如はずっと南方にいるわけですから、よっぽどのことがない限り不倫がバレることはないのだとは思います。でも、不倫がバレた時の二人の反応が見てみたい。もしくは、岳飛はバレていないと思っていても崔如には何もかもお見通しだったりするのかも。楽しみなことが増えました。

金の命運を握るのは

 金国の命運を握るのは兀朮と海陵王の関係性でしょうか。この関係性もなかなか面白いなと思って注目しています。

生きているから、こわいのだ。死ねばいい。こわいのは死ぬと思うからで、死んでいれば死ぬと思わん。最初の一撃だ。それでおまえは、いろいろなものを脱ぎ捨てられる。 

 なんだかブラック企業の創業者みたいな発言ですが、海陵王が一端の男になるかどうかは、今後の展開を左右しそうです。肝心なところで彼が腰砕けであれば、兀朮の苦労は倍増ですからね。

「手が届いても、頭をぽかりとやるぐらいで」「あの海陵王とかいうやつが逃げる時、いつでも首を奪れる隙があるのですよ。なりふり構わず、逃げるからですかね。俺も、兜を飛ばすぐらいにしておきます」 

 梁山泊遊撃隊の面々は海陵王を舐めきっています。「頭をぽかりとやるぐらいで」なんてかわいいセリフを聞けるとはちょっと驚きました。さて、海陵王は男を見せることはできるでしょうか。

 個人的に一番気になるのは秦容の動きです。今は南宋領内で臨安府を睨む位置にいますが、そこは南下してくる金軍にも対応できる場所でもあります。岳飛南宋と秦容の三者が絡み合う状態から、さらに金まで巻き込むとなるともう混戦です。いったい彼はどういう作戦をとるでしょうか。楽しみですその他、話を覚えておくためのメモ。

  • 韓順とショウシュウザイの旅が終わる。不意に現れたショウケンザイに、約束の時を守るように言われ、死ぬ気で走る。そして、韓順ついたとたん、顧大嫂が亡くなる 。
  • 南宋軍のライキョウ、コウレイが指揮する大群を秦容が撃破。二人は南宋軍から退役することになる。
  • 韓成が西遼の丞相になる。韓順は北の部族のところへ行き、飛脚網を広げる仕事をする。
  • ヘイセイセイの協力もあり、張朔は南宋水軍40艘を壊滅させる。陸に上がったときにリュウコウギョクが梁山泊水軍の将校を切り倒し、張朔を怒らせる。 
  • 胡土児に何度も命を救われた少年は徒空と命名される 。
  • 軍のこまごまとしたことを取り仕切っていたサイランを、岳飛は将校にしてショウキの下に入れる。息子だからといって、特別扱いはやめる。 

 

岳飛伝シリーズ。 

 

【激動の父の人生へタイムスリップ】書評:地下鉄に乗って/浅田次郎

地下鉄に乗って (講談社文庫)

地下鉄に乗って (講談社文庫)

 

概要

 浅田次郎さんが吉川英治文学新人賞を受賞した作品です。地下鉄がタイムマシンとなり、兄・父・愛人の人生を追憶することになる主人公真次。激動の時代を生き抜いてきた父の人生をメインに、今まで知ることのなかった因縁が明らかになっていきます。

おすすめポイント

 昭和の東京の雰囲気を豊かに伝える物語でした。昔のメトロの描写などは、懐かしむことのできる人もいるのでしょう。それができない僕のような人間にとっても、自分の親の人生を辿るとどのような気持ちになるか、考えさせられる作品でした。

感想

東京の人々と共に生きてきた地下鉄の生き様

 この物語は地下鉄から始まり、地下鉄で終わります。最初の地下鉄が東京を走ったのは1927年のことだったそうです。戦前・戦中・戦後と時代が流れても運行し続け、数えきれない人が利用してきました。浅田さんは東京の生まれだそうなので、地下鉄にはちょっと思い入れがあるのかな、なんて考えながら読んでいました。

ふと、こんなことを考えた。人生の何割かを東京の地下で暮らしてきたのは、何も自分ひとりではあるまい。行き交う人々はみな、人生の何分の一かに相当する時間を、地下鉄の中で過ごしているのだ。夏は涼しく、冬は暖かい、網の目のように張りめぐらされたこの涯もない空間の中で、誰もが重苦しい愛憎を胸に抱える。 

 地下鉄という閉鎖的な空間には、あらゆる時代の利用者の想いが染み込んでいる。そんな想像を巡らせながら僕も読んでいました。例えば戦争中は赤紙をもらって軍に招集された青年が乗って行く。もう、帰ることはないかもしれないと思いながら。

胸がいっぱいになったのは、そんなことじゃなくって、私たちが毎日何も考えずに乗っている地下鉄が、こんなふうに人の命を載せていた時代もあるんだって、ある古い銀座線はそんなことおくびにも出さないけれど、死んで行く若者たちを何千人も、何万人も、黙って送り続けていたんだって、そう思ったんです。 

 ただの移動手段だと思って気にも留めない生活をするのは、もしかしたらもったいないのかもしれませんね。若き兵隊の怨念が住み着いていると考えるとホラーですが。

鮮やかに書き分けられる時代ごとの色

 真次は物語の中で数回に渡ってタイムスリップを経験します。時間旅行の行き先は兄の命日だったり、父がまだ小さいころだったり。その時々の東京の様子が細かく描写されていました。戦後の東京オリンピックが開催されるきらびやか雰囲気、戦中の配給が滞って闇市で人が上をしのいでいる雰囲気、戦前の好景気に湧いた華やかな雰囲気などなど。それらは独特の色を持っているように僕は感じられました。戦後はネオンの色、戦中は灰色の駅とオレンジの電球に照らされた闇市の色、戦前はモダンなレンガ造りの建物の色。戦闘地域の真っただ中の満州に飛んでいるときは、白黒の世界が浮かびました。

 時間が流れて今の時代が過去になったとき、何色で表現されるのでしょうか。パソコンやスマホのディスプレイの青白い光が、今を代表する色になるのかもしれませんね。

兄と血縁と運命

 タイムトラベルは、真次に過酷な運命を突きつけます。

そのとき真次が考えたものは、自分の血族をめぐる恐ろしい必然だった。すべては揺るぎようがない、どんな偶然も関与することのない、この結果しかないことなのだと思った。運命というものの正体を、真次は確かにその目で見た。少なくとも、家族の誰ひとりとして、愛憎の法則に逆らった者はいない。家族は愛し合っていた。とりわけ、聡明な兄は誰よりも父を理解し、尊敬し、かつ愛していたのだと思った。それでも、この結末しかなかった。 

 過去に干渉できるというのは運命を変えられるということです。タイムスリップが絡むSFでは、それが行われることが多いです。しかしここで真次は、「すべては揺るぎようがない、どんな偶然も関与することのない、この結果しかないことなのだと思った」と言っています。タイムスリップを意識して書かれたであろうこの一節は、運命を変えさせまいと縛る血縁の強さを語っています。

 言い方が悪いですが兄はもう死ぬしかなかったということでしょう。何度真次がタイムスリップしても、帰ってきた現在に兄はいませんでした。

永遠に未完な時代の闇を、真次はさまよっていた。昭和三十九年の冬ーそれは一面を焼き尽くされていたあの時代から、わずか十九年しか経ってはいないのだ。風景がひどく脆弱に、心もとなく見えるのは、それらすべてが半年後に控えた壮大な復活の儀式に向かって、あわただしく準備されていたからにちがいない。すさまじい勢いで甦った世界の、どうともつなぎ合わさらぬ断層に、兄は落ちて行ったのだと思った。

 誰も悪くないと、強いて言うなら時代が悪かったと、そういうことにしたいのではないでしょうか。兄が不憫だなあと思いました。そういえば、兄の本当の父親は全く登場しなかったですね。

みち子との禁じられた恋

 みち子と真次の隠された因縁。予想外の展開に驚きました。なんという運命。なんという巡り合わせ。こんな真実を知らずして、二人は出会っていたとは。しかし釈然としない一説があります。

みち子は真次の母の希いを、まるで姑の意思に従う嫁のように、忍耐づよく守り続けたにちがいなかった。夜ごと来るはずのない男の食膳をあつらえ、泣きながらそれを捨て、そして真次に対しては常に冷淡な、倦み果てた女の仮面を被り続けてきたのだった。愛の言葉を封印されたまま二人の因果を知ったみち子の狂おしさを思うと、真次にはもう何ひとつとして口にする言葉が思い浮かばなかった。 

 一方的にみち子は知っているでしょうが、みち子は真次の母とは面識がないはずです。上の文はみち子が背負った非常に哀しい運命を解説するものですが、なぜみち子が真次の母の願いを守り続けたと書いてあるのか僕にはわかりません。きっとどこかで伏線を読み落としたのかな。

 みち子と母の感動的な会話シーンもちょっと腑に落ちない。

おかあさんとこの人とを、秤にかけてもいいですか。私を産んでくれたおかあさんの幸せと、私を愛したこの人の幸せの、どっちかを選べって言われたら…

 みち子は「天秤にかけてもいいか」と実の母に問います。真次を選ぶことが母を捨てることに直接つながるのでしょうか。みち子と真次が腹違いの兄弟であることを知りながら一緒になることは、自らの血を捨てるということであって、それがつまり母への裏切りということになるのでしょうか。よくわかりません。

あのね、お嬢さん。親っていうのは、自分の幸せを子どもに望んだりはしないものよ。そんなこと決まってるさ。好きな人を幸せにしてやりな。

 これは名セリフではあるのですが、上で疑問がいっぱい浮かんだ僕にはあまり刺さりませんでした。真次にはきっぱりとした態度をとっていたみち子ですが、やっぱり真次のことをあきらめきれなくて、禁じられた恋に突き進もうかと迷っていたということですかね。うーん。なんか納得できないな。

何のためのタイムスリップだったのか

 最大の疑問はこれ。誰がなんのために、真次をタイムスリップさせたのか。大抵、こういう話には事件の黒幕がいて、そいつの望むように主人公は踊らされますよね。でも、この物語ではそいつの正体は明示されませんでした。まるで自然現象かのようにタイムスリップが扱われています。

 怪しいのはやはり「のっぺい」ですかね。

病床で、あの方の人生を知りたいといちずに念じておったら、すべて知ることができた。ふしぎなこともあるものだー君も、みてきたのだろう?

 のっぺいもタイムスリップして小沼佐吉の生涯を追憶してきたようです。でも、この言い方だとのっぺいが真次のタイムスリップを操っていたわけではなさそうですね。僕は序盤に登場したこの一節が気になっています。

時間というものの蓋然性について考える。母を見るにつけ、時間というものはそれほど絶対的に、着実に流れているとは思えない。記憶という暗い流れの中で、孤独な人間を乗せて行きつ戻りつしている小舟が、時間というものの状態だと、真次は思った。だから正確には、時間を共有している人間などひとりもいないのだ。 

 時間というものは、実は他人と共有できる絶対的な軸ではない。誰もが記憶という流れの中を自由自在に行ったり来たりできる。それをたまたま真次とのっぺいは経験しただけ・・・。エキセントリックですね。とてもじゃないけど時間の概念をぶち壊す物語ではない気がしますが、なんだかここが引っかかっているのです。考え過ぎかな。

 兄と愛人の悲しすぎる運命を知って、うちひしがれるかと思いきやちょっとだけ元気になる真次。父のたくましい姿を知ったからでしょうか。

たちまち真次は、この数日間に見てきた小沼佐吉の肖像を胸の中に並べた。それは、おびただしい苦労のひとつひとつが、克明に相をなした男の顔だった。そしておそらく、有史以来もっとも過酷な時代を生き残った男の顔だ。父はいつでも時代に立ち向かってきたのだと思った。 

 地下鉄が走るように、父が生き抜いてきたように、自分も一生懸命生きようと。そんなことを思ったのでしょうか。佐吉と真次はさんざん似ていると書かれていますから、思考回路の根本は大体同じだったりして。こういう風に父の人生を直接見る機会があったら、みなさんは何を考えると思いますか。なにか嫌なところがある父であっても許せる気分になるでしょうか。想像つかないですね。

 

 

 

 こちらは 浅田次郎さんが直木賞を受賞した作品。珠玉の名作短編集でした。

 

【人付き合いの絶望と希望】書評:対岸の彼女/角田光代

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

概要

 角田光代さんが直木賞を受賞した作品です。一児の母である小夜子と女社長の葵の交友を描きます。小夜子が主人公の現在と、葵の高校時代の過去を行き来しながら物語が進みます。

おすすめポイント

 学校という閉鎖的な空間に倦んでいたあのころ、そして大人になった今も、他人との距離の保ち方は難しい。人と交わることの苦しさをくっきり抉り出しつつも、ラストで少しだけ希望を見せてくれます。

感想

 この物語は一風変わった時間軸を持って進んでいきます。主人公は小夜子と葵。彼女たちは同い年。娘を持つ小夜子は葵の経営する会社で働くことになります。主婦と女社長。引っ込み思案な小夜子と、快活な葵。境遇も性格も全く違う二人の人生は現在において交差します。

 一方で現在と並行して語られる葵の過去の物語には、引っ込み思案な葵と快活なナナコが登場します。読者はここで角田さんの仕掛けた挑発に乗らざるを得ません。一体、現在と過去の間で、葵に何があったのか。ナナコはどうなってしまったのか。その謎が、否が応でも気になってしまうのです。

 謎を紐解く旅は、人類普遍の悩みである人付き合いのわずらわしさというテーマを背景に据えて進んでいきます。学生のころも、大人になったいまでも、小夜子と葵は悩み、そして考え続けます。

スクールカースト

 葵の過去編は中学生、高校生と進んでいきます。いじめを苦に引っ越しをした葵は、周りをうかがいながら、決していじめの標的にされないように、細心の注意を払って学校に通います。クラスを流れる不穏な雰囲気、それを敏感にとらえて息をひそめる葵。それとは対照的に、スクールカーストなどまったく意に介さないナナコ。

結局さ、のっぺりしすぎてるんだよ、とナナコは言っていた。何もかもがのっぺりしてる。毎日、光景、生活、成績、全部のっぺりしてるから、いらいらして、カーストみたいな理不尽な順位をつけて優位に立ったつもりにならなきゃ、みんなやっていられないんじゃないかな。 

 大抵の人が経験したであろうスクールカースト。あの理不尽な階層化はなぜ起こるのか疑問に感じる人は多いでしょう。あのときの息苦しさの中で、彼女たちは彼女たちなりに考えています。

いじめをするほど幼稚ではないが、けれど何かむしゃくしゃする、人を見下し順列をつけ優位に立ちたい。そんな気分が、どこにも出口を見つけられないまま鬱積していっているように、葵には感じられた。 

 彼女たちの持っているスクールカースト観。葵はなんとか仲間を作って最下層に転落しないように心がけ、割り切れない思いを抱えたまま学生生活を送っていきます。ここで注目したいのが下のセリフ。これは現在の時間軸において、葵が小夜子に言ったセリフです。過去に起きた出来事を僕ら読者は知っているからこそ、この言葉の重みが分かるのです。

お友だちがいないと世界が終わる、って感じ、ない?友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子、暗い子はいけない子。そんなふうに、だれかに思いこまされてんだよね。私もずっとそう思ってた。世代とかじゃないのかな、世界の共通概念なのかな。 

 スクールカーストに悩んでいた過去と、こんなセリフを言えるようになった現在。時を経て、葵の価値観は大きく変化したことが見て取れます。

私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね。

 葵にとって「ひとりでいてもこわくないと思わせてくれるなにか」は何だったのだろう。葵の過去を同時並行で追っている読者は気になります。ナナコの存在がこれにあたるのかな、なんていう風に。こんなに強いセリフを吐いている葵も、起業した当初はいっぱいいっぱいになっていました。

人と関わることに疲れている自分がいた。人を雇い彼らとともに働くことは、できることできないことを単純に分散させるのとはわけが違った。適当に仕事を怠け不満ばかり並べたてる。笑顔で近づいてきて、仕事を横取りしていく。自分の欠点は棚に上げ、こちらの非ばかり言い募る。葵の過去を 何も知らないはずの人々は、いつのまにかそれをどこかで小耳に挟み、奇妙な好奇心で立ち入ってくる。何人もの人がやってきては去り、やってきては去る。私のできないことのなかに、人と関わるという基本的なことも含まれているのではないか。そう思いついて葵はぞっとした。 

 人と関わることのむずかしさ。これは小夜子も悩むテーマであり、この作品を貫くテーマでもあると僕は感じました。スクールカーストのころから変わらない苦手意識。これを、払しょくできる日はくるのか。非情に難しい問題であることは間違いありません。その永遠のテーマに対する答えとして小夜子を主人公とする現在が描かれているのだと思います。

年を重ねることの意味

 物語の終盤、小夜子は年を重ねて大人になる意味について思いを巡らせます。そして、人付き合いに対する自分なりの答えを得ます。

なんのために私たちは歳を重ねるのだろう。大きな窓の外、葉を落とした銀杏並木を眺め小夜子はぼんやり考える。園児を待つあいだのお茶のお誘いを、忙しいからと数度断れば、元々同じ幼稚園に子どもを通わせているわけではないのだし、彼女たちはもう誘ってこなくなるだろう。けれど そんなことでもう自分は傷ついたりしない。高校生のように暇じゃないのだ。自分にも、彼女たちにも、それぞれの家庭があり生活がある。 

 「高校生のように暇じゃない」というのは、退屈がスクールカーストを生んだと考察したナナコの言葉に重なります。大人は忙しいから、カーストなんて作っている暇がないんだと。

なんのために歳を重ねたのか。人と関わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げこむためだろうか。銀行に用事がある、子どもを迎えにいかなきゃならない、食事の支度をしなくちゃならない、そう口にして、家のドアをぱたんと閉めるためだろうか。そんなことを思う。 

 忙しさは人付き合いを避けるための言い訳なのか。いや、そんなことはない。そんなことはないと言ってほしい。僕はそう思いながら読んでいました。そして次の文章でようやく小夜子は答えを悟ります。

その思いつきに顔を輝かせ、早くも献立を考えなじめる妻を見ていて、小夜子はようやくわかった気がした。なぜ私たちは歳を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いて行くためだ。 

 小夜子が気づいた真実はシンプル。出会うために、僕らは年をとっていく。この文章を読んだとき、鳥肌が立ちました。なぜなら過去編の最後で、ナナコと別れざるをえなかった葵の言葉を思い出したからです。

おとうさん、なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。父の言葉にうなずきながら葵は心のなかで叫ぶように言った。何かを選んだつもりになっても、ただ空をつかんでいるだけ。自分の思う方向に、自分の足を踏み出すこともできない。ねえおとうさん。もしどこかでナナコが ひどく傷ついて泣いていたら、あたしには何ができる?駆けつけてやることも、懐中電灯で合図を送ることもできないじゃないか。なんのためにあたしたちは大人になるの?大人になれば自分で何かを選べるようになるの?大切だと思う人を失うことなく、いきたいと思う方向に、まっすぐ足を踏み出せるの? 

 高校生の葵は何もできない無力感を嘆きました。「大人になれば自分で何かを選べるようなるの?」と。一方で大人になった小夜子は真実に気づきました。年を重ねることは「出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いて行くためだ。 」なのです。大人になるにつれ、僕らは窮屈になると思いがちです。でも、角田さんはそうじゃないと言ってくれているように感じました。大人になったからこそ、出会いを選び、自分の人生を思うがままに生きられる。

二人は飛び跳ねながら少し先を指差す。指の先を目で追うと、川に架かる橋がある。二人の女子高生は小夜子に手招きし、橋に向かって走り出す。対岸の彼女たちを追うように、橋を目指し小夜子も制服の裾を躍らせて走る。川は空を映して、静かに流れている。 

 小夜子は川を渡り、対岸の彼女たちに会いに行くことを決めました。そうやって、僕らはきっと自分の人生を選んでいける。序盤は暗いトーンで物語が進んでいきましたが、最後は前向きな気分になりました。いろんなことを現実的に考えさせられる素晴らしい一冊です。Bランクに入れます。

 

 

Kindle版 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

 

角田さんの別の作品。誘拐した女の子を育てる女性の生涯を描きます。

 

【死の迷宮の謎】書評:螺鈿迷宮/海堂尊

螺鈿迷宮 上 (角川文庫)

螺鈿迷宮 上 (角川文庫)

 
螺鈿迷宮 下 (角川文庫)

螺鈿迷宮 下 (角川文庫)

 

概要

 「チームバチスタの栄光」から始まる海堂尊さんの桜宮サーガ。今作の主人公は田口ではなく医学生の天馬大吉。時系列的には「ジェネラル・ルージュの凱旋」と「イノセント・ゲリラの祝祭」の間の出来事です。

おすすめポイント

 外伝だと思って侮るなかれ。重厚に組み上げた螺鈿迷宮の謎が読者を待ち受けます。天馬は果たして真相を解明できるでしょうか。

感想

死と女と螺鈿

 医療は死に向かう生物を生の側に引き戻す作業です。だから医療小説であるこのシリーズでは生と死が交錯する様子が何度も描かれていますが、この作品では死の側が強く印象に残りました。物語の舞台である桜宮病院は終末医療に関して先進的な取り組みを実施していて、患者を働かせることで人手不足を補うと同時に生きがいを与えるというシステムができあがっています。ひょんなことからこの病院に潜入調査をすることになった天馬は、次第にこのシステムの闇の部分を見ることになります。

意地悪な見方をすれば、患者の余剰労働力の搾取だ。ただし病院も税金等を支払うだろうから、一概に搾取とは言い切れなさそうだが。見る角度で様変わりする碧翠院は、まるで螺鈿細工のようだ。 

 天馬が潜入してから不自然に急増する患者の死。皮膚科医を装って白鳥が潜り込んできて、事態は動き出します。謎を散らかす部分が長くて少し焦れったかったですが、終盤の怒涛の流れはお見事でした。非常にスリリングでした。

 主人公はいつもの田口ではないですが、天馬もキャラがはっきりしていて彼に共感できます。ふわふわした根無し草体質で、弱った子犬のように女性たちにかわいがってもらえる存在。幼なじみの葉子、桜宮病院を仕切る小百合とすみれの双子姉妹、そして氷姫こと姫宮ら物語の骨格を作っているのは女性であり、彼女らと天馬の距離感がそれぞれに描かれていきます。

 冒頭で天馬が書いた原稿は修辞が効きすぎていると葉子にダメ出しされるシーンがあります。そこと繋がっているのかは定かではないですが、今作はやたらと装飾された言葉で物語が綴られていきます。メインテーマに据えられた終末医療と、ハーレム状態の天馬のミスマッチが、綺麗に彩られた文章で浮かび上がります。アンバランスで独特な世界でした。

銀獅子の遺言

 桜宮病院のボスである桜宮巌雄は強い男でした。このシリーズにおいて今まで無敵を誇ってきた火喰い鳥白鳥が、負けを認めるとは新鮮で驚きでした。また、巌雄から医学の真髄を見せつけられた天馬が、今後どのような医師になっていくかも楽しみです。

おい、そこのできそこないの医学生、これが最後だから、耳をかっぽじいてよく聞けよ。死を学べ。死体の声に耳を澄ませ。ひとりひとりの患者の死に、きちんと向き合い続けてさえいれば、いつか必ず立派な医者になれる。 

 天馬は輝天炎上にて再登場しているらしいので機会があれば読んでみたいと思います。また、白鳥もアドバイスをもらっていました。

大きなことをやりとげるなら、薄暗がりに身を潜めろ。ワシには桜宮の血脈にこてんぱんにされたヌシの、未来の泣きべそ顔が見える。そうなりたくなければ鉈になれ。剃刀ではダメだ。これでもワシは、ヌシには期待しとるんだ。

 なんでカミソリではダメなのでしょう。なぜ鉈なのでしょう。よくわかりませんが、今後の伏線になっているのかな?注意しながら以降の作品も読みたいと思います。

 

 

チームバチスタシリーズ

【価値観が崩れ去る恋】書評:真昼なのに昏い部屋/江國香織

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

真昼なのに昏い部屋 (講談社文庫)

 

概要

 江國香織さんが中央公論文芸賞を受賞した作品。絵に描いたような「家を守る」タイプの真面目な主婦美弥子が、近所に住むアメリカ人ジョーンズと不倫の恋に落ちていく物語です。

おすすめポイント

 3人称のですます調で進んでいくこの作品は、ほかの作品とは一味違った読み心地でした。恋の持つパワーを恐ろしいほど感じる作品です。

感想

3人称のですます調

 物語の大筋はいたってシンプルです。主婦の美弥子が不倫の恋に転がり落ちていく様を描いただけです。主に美弥子の心境が変化していく様子を描いています。3人称のですます調の文章で書かれると、なんとも不思議な感じがします。

腹が立つのは、美弥子さんがひどく無邪気に見えることでした。まるで、自分の良心には一点の曇りもないというように。ナタリーの意見では、それは誰かのーあるいは何かのー保護下にある女の特徴でした。遠い昔、自分もそうだったことを憶えています。夫だった男性の横で、いまの美弥子さんみたいににこにこしていたときが確かにあったのです。 

 「美弥子は無邪気である」と書くのではなく、「無邪気に見える」と書かれます。すべての文章が他人のフィルターを通過してから届く感じがしました。ですが、自分で自分のことを無邪気だと言う人はいないわけで、無邪気に見えるというのがどういうニュアンスなのかきちんと伝わってくるわけです。面白いですね。

心の変化を追えるか

 上の引用にあるように、最初は美弥子は夫である浩の庇護下にいます。それが、ジョーンズと一緒にいるにつれ、だんだん変わってきます。

まったく驚くべきことでした。ジョーンズさんといると、1日ずつが新しいということや、世のなかにはいろいろな人がいるということ、色が溢れ音が溢れ匂いが溢れていること、すべてが変化するということ、すべての瞬間が唯一無二であること、でも、だからこそ惜しまなくていいこと、などなこわいくらい鮮烈に感じられます。

 変化はゆっくりですが、着実に進行していきます。そしてある時を堺にして、美弥子は今までとは違った世界に踏み出してしまったことを知ります。

すべての伝言を聞き終え、メイルを読み終えた美弥子さんは、愕然としました。この人たちは一体誰なの?そう思ったからです。勿論、誰であるかは知っていました。みんな、美弥子かんがよく知っているつもりだった人たちです。けれど、いま彼らは揃いも揃ってひどく遠い場所ー対岸ーにいるようでした。「どうしよう」そしてもう一度、ぼんやりと呟きました。私、世界の外へ出ちゃったんだわ。美弥子さんにわかったのは、そのことでした。 

 「世界の外に出ちゃった」。あまりにも踏み外した印象をもつその言葉が、美弥子の心の中に浮かびます。それはさすがに大げさなんじゃないの?と僕は最初思いました。しかしそれはジョーンズにとっては特に不思議なことではないようです。さすが、いろいろなところを旅していろんな経験をしてきただけあります。

ジョーンズさんにしてみれば、けれどそれらはまったく信じられることで自分のまわりに確固たる世界があると思い込むのは錯覚にすぎませんし、足元とが揺らぐとか、既存の価値観が崩れ去るとかいうことは、人生のうちで人がしばしば経験せざるを得ないことです。ジョーンズさんの意見では、美弥子さんはただ単に、真理を発見したのです。 

 人は既存の価値観が崩れ去ることを経験する。それを美弥子は「世界の外に出る」と表現したわけですね。そして終盤になってようやく美弥子は気づきます。

あっというまに転落してしまった。美弥子さんは思いました。 転落? 自分の言葉に自分で戸惑い、眉根を寄せます(理解しにくいことを理解しようとするときの、それがこの人の癖でした)。私は転落したのかしら。でも、どこから? 

 そう、僕が疑問に思ったのもまさにこれで、「どこから?」ということなのです。美弥子の心はどこから変わってしまったのか。どの時点で世界の外に出てしまったのか。たぶん、明確にここと指し示すことはできないのでしょう。「どこからが不倫か?」という問いに対して「心が離れたら」と答えるのは一見筋が通っているのですが、じゃあこの物語において美弥子の心はいつ離れたのでしょう。それがわからなければ、どこからが不倫かも永遠に分からずじまいです。ああ。本当に難しい問題です。

遠すぎた夫との距離

 僕が一人の男として気になったのが、最後の最後まで美弥子と夫である浩の間に、心の通ったコミュニケーションがなかった点です。女にモテモテだった浩が美弥子を口説くためにいかに努力したかを語るシーンもありましたが、結婚する前からこの二人は本音をさらけ出したコミュニケーションをとってこなかったのではないかと疑いたくなります。食卓を囲んで交わされる会話も全くかみ合っておらず、お互いにそれを気にするそぶりもない。

 極めつけはジョーンズと頻繁に出かけていることを知った浩の対応です。もう、噛みあわないどころの話ではありません。上の引用にあったように、二人の住む世界は完璧にずれてしまったようでした。これっぽっちの言葉も思いも届かないのです。3人称で語られているからこそ、お互いの意思がわかり、そのすれ違いの大きさに気づいて僕ら読者は愕然とします。それはもう恐ろしいほどなのです。

 今まで曲がりなりにも夫婦として過ごしてきた二人が、これほどまでに離れてしまったのはなぜなのでしょうか。ちんけな表現ですが、これが恋の持つ力なのでしょう。それはいともたやすく人間の世界観を変えてしまいます。タイトルの「真昼なのに暗い部屋」に関して、ジョーンズが以下のような言葉を発します。

「電気をつけてしまうと、途端に味けなくなるんです」台所から声がしました。「暗がりにしか生息できない、目に見えないものたちがいて、あかるくすると、そいつらが逃げだしてしまうからだと僕は思いますね」 

 タイトルは少しつかみどころのない感じがします。ジョーンズの言う得体のしれない生物も、このセリフにしか登場しません。恋の持つパワーを、僕らはひたすらポジティブなものだと捉えていますが、ひょっとしたら暗がりに潜む邪悪な生物のように、僕らの世界を壊したがっているのかもしれません。やばいと思ったら逃げるべきなのかもしれないですが、僕は逃げ切れる自信がありません。美弥子がそうであったように、気づいたときには、もう遅いのでしょう。普遍的なテーマを掲げているので誰が読んでもいろいろ考えさせられるのではないかと思います。Bランクに入れます。

 

 

 そのほか、不倫をメインテーマにした作品。

 東野圭吾さんの「夜明けの街で」は不倫とミステリーを掛けあわせた作品でした。

 中村航さんの「僕の好きな人がよく眠れますように」は不倫をどこまでもピュアに仕立てあげた作品でした。 

【宇宙はここまで解明された】書評:宇宙は何でできているのか/村山斉

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

 

概要

 2011年度の新書大賞を受賞した一冊。宇宙を専攻する東大教授が、宇宙研究の最前線を解説します。

おすすめポイント

 バランス感覚に優れた良書だと思います。初心者向けですが、適度に難しい話も書かれています。混み入った話は省き、大局を失いません。宇宙に興味がある方なら誰でも楽しめる内容です。

感想

 この本の副題に入っている素粒子という言葉。これは物質を構成する最小単位に迫る研究で用いられる言葉で、非常に非常に小さい粒子です。なぜ、巨大な宇宙の謎を解明するために、素粒子の研究が必要なのか。それを解説するために著者の村山さんは、ウロボロスの蛇をたとえに出します。蛇の頭の方に目を移していくと広大な宇宙があり、しっぽの方には素粒子の世界があります。ウロボロスは自分の尾を噛んで全体として一周している。宇宙と素粒子はこのような感じで、対極にありながらもお互いに密接な関係があるそうです。いろいろ細かい話は忘れてしまいましたが、この話は頭に刻まれました。

 大まかな流れとしては、ニュートンが重力を発見して以降の宇宙の研究の進展が記されています。タイトルの「宇宙は何でできているか」に迫るため、物質を構成する最小単位は何かという謎に迫っていきます。当初は分子や原子だと考えられていたそれは、陽子や電子になり、さらにクォーツという単位に分けられることが次々に解明されてきました。

 宇宙の研究で面白いなと思ったことは、先に予想がなされるという点です。「こういう風になっていれば現象を正しく説明できる」と言い出す研究者が現れ、その理論があまりにも突拍子ないと笑われたりもするのですが、のちに実験によって正しかったことが証明される。何度もそのプロセスが辿られた結果、いまの成果があるのだと。他の分野では先に理論で説明がつかない現象があって、それを理論体系として作り上げるのが筋だと思っていたのですが、真逆なのですね。

 暗黒物質についての説明もありました。これも非常に面白かったです。単なる空想上のものかと思っていたのですが、どうやら実在するようです。それどころか、暗黒物質がないと僕らの銀河は銀河系の中心から弾き飛ばされてしまうのだとか。得体の知らない物質に今の僕らは支えられているのですね。

 本書の後半、話は近年の素粒子研究に移ります。ノーベル賞を取った日本人の成果も当然その流れの中に組み込まれています。宇宙分野のノーベル賞の受賞理由はとにかくわかりにくいですよね。もちろん、村山さんも説明には苦労しているのですが、その研究の意義は大まかに理解することができました。出版されたのは2011年なのですが、2015年度のノーベル物理賞の受賞者である梶田隆章さんが観測した「ニュートリノ振動」についても解説があります。この現象も存在が予想されているだけで観測されていなかったのですが、ノーベル賞を受賞したということは梶田さんがついに観測したということですね。

 僕の受けたイメージでは、宇宙の始まりについてはけっこう解明が進んでいるのではないかと思ったのです。ビックバンの直後に何が起きたのかについての説明は多かったです。一方で宇宙の終わりについてはまだまだといった印象。宇宙の膨張のスピードが現在は加速しているらしいのですが、これが永遠に続くのか、またはどこかで減速に転じるのかはまだまだ分からないようで、様々な予想がなされています。

 宇宙の始まりの話をしだすと、なんだか怖くなりませんか?なぜ宇宙というものが始まったのでしょう。始まる前はなにがあったのでしょう。宇宙がなくなったら何が残るのでしょう。そこについてのコメントは一切ありませんでした。誰にもわからないことですし、宗教の話にも絡んできますものね。でも、僕が一番気になるのは実はそのへんだったりします。僕は何のためにここにいるのでしょう。その理由を知るには僕はあまりにも小さい存在で、逆にカギを握る素粒子を調べるにはあまりにも大きい存在です。僕が死ぬまでに、どこまでのことがわかるでしょうか。楽しみであり、ちょっと怖くもあります。今後も、このような宇宙に関する良書を読みたいなと思います。

 

 

Kindle版 

 

 

2015年度の新書大賞 

 

 2014年度の新書大賞